コロナ騒動記2

 前回の投稿から半年あまり経ったので、再びコロナについて語りたいと思う。投稿に際して、前回の文書を読んでみて驚いた。ほとんどその頃と変わっていないのだ。もちろん、ワクチンの接種は進んでいるが、医療崩壊を叫ぶわりには、コロナ受け入れ病棟はあまり増えていないし、尾身会長を筆頭に分科会は相変わらず何をしているか分からない。ほとんど書く内容が同じになってしまうか心配であるが、とりあえず現在進行形で考えていることを書き連ねておくことにする。

 ワクチン接種について
ワクチン接種が信じられないくらい進んでいる。一日100万回というマスコミが「できるわけない!」と批判していた数字は軽々クリアしている模様だ。マスコミは文句は言うが、その文句が間違っていても謝ることはない。ところで、このワクチン異常に効いているようだ。最近第5波が来ているが、高齢者の陽性者数の少ないこと、そして重症者もかなり少ない。これだけ強力に効くとなると、なんらかの副反応があるかもしれないという心配が出てくるのもある程度は仕方がないだろう。しかし、コロナ禍を押さえ込むにはワクチン以外に手段がないわけだから、少なくとも40代以上はワクチンを打つべきでしょう。マスコミも因果関係がはっきりしないワクチン接種後の死亡事例についてあまり大げさに報じるべきではないと思う。ネガティブキャンペーンがどういった影響を及ぼすかよく考えた方が良い。

 入院条件の変更について
 突然入院条件が変更された。従来はPCR検査で陽性になった場合にはもれなく入院、もしくはホテル療養。ところが、陽性者数があまりに増えすぎ、病床数が足りなくなるので、病床使用率が高い都道府県では、重症者と中等症の患者だけが入院し、それ以外は基本的に自宅療養することになった。
 これに関してまたぞろ、批判が殺到している。「軽症で急激に悪化した人を見殺しにするのか!」「重症になりそうな患者を誰が判断するんだ!」「私に何の連絡もなかった!」など。しかし、この判断はすごく全うなものだと思う。今まで通りでは病床数が足りないんだから症状によって選別するしかない。トリアージとかいうと「人の命をなんだと思っている!」とかヒステリックに叫ぶ人もいるが、病床数を増やすか、患者を選別するしかないじゃない。どうしろって言うんだ。
 尾身会長が相変わらず大御所コメンテーターのように「私に相談がなかった」などと話していますが、分科会が本来は提案すべき問題ではないだろうか。病床数を増やすこともせず、人流抑制をいっているだけの分科会はそろそろ解散させて方がいい。いままで軽症患者で埋まっていた病床の問題について今まで何か提言したのだろうか?患者の症状による転院の仕組みなどを提言したのだろうか?高齢者のワクチン接種がほぼ終わる新しいフェーズにおける対策について何か提言したのだろうか?自殺者(特に若者)の急増について何らかの分析をしたのだろうか?ワクチン接種完了がどの程度進めばどういった行動規範が可能か、その工程表を提言したのだろうか?指定感染症の類型変更について議論したのだろうか?分科会がどのような体制で動いているか分からないが、結果として仕事をしていないことは間違いない。
 この入院条件の変更は、指定感染症の2類のまま、対応は5類にするという中途半端感が否めない。軽症、無症状患者が自宅療養となると、他の人にどんどん感染していき、追跡していけば陽性者数がものすごく上がりそうだ。思い切って5類にしてインフルエンザと同じ対応にしてもいいのではないだろうか。まあ、5類にしてしまうと患者は3割負担しなければならないし、病院もうまみがなくなるので衆院選もあるから無理なのかな。
 こういうと、「自分が罹ったときに同じことが言えるのか?」といわれるだろう。もちろん、自分事として考えれば怖くないわけがない。しかし、自分が罹患して重症化する確率はどのくらいなのだろうか?そろそろそういったデータが出てきても良さそうなものだ。誰か知っていたら教えて欲しい、例えば、交通事故にあう確率、がんになる確率、成人病になる確率などと比較して、新型コロナに感染し、重篤化する確率はどんなものなのだろうか。コロナの危険性だけがクローズアップされているのか、あるいは本当にコロナの危険性は他のあまたある危険性よりも著しく高いのだろうか?
 われわれは安心・安全を当たり前のことと考えすぎているのではないだろうか。生きている限り何らかの危険と背中合わせなのだ。要は確率の問題だ。誰かきちんとしたデータでそこら辺のところを説明して欲しい。

生贄探し まとめ

 他人が失敗したり、不幸に陥ったりしたときに、思わず湧きあがってしまう喜びの感情を残念ながら人間は持っている。これをドイツ語由来の学術用語でシャーデンロイデという。「シャーデン(損害)」+「フロイデ(喜び)」で、他人の損害を喜ぶ感情を指す。このシャーデンフロイデが集団内で発生した時に、異質な他人を排除する方向に働く。古くは魔女狩りが挙げられ、いじめや有名人が不祥事を起こしたときにどん底まで突き落とすことも、この感情が少なからず影響を与えている。


 人間の脳というのは、基本的には人間同士を近くにいさせたがるように作られている。そのことで助け合いをしやすくする、つまり互恵関係を気づきやすいように仕向けられている。しかし、その一方で近づきすぎると今度は気付付けあうようにもセットされている。そういうジレンマが人間には内包されている。この複雑な仕組みは複雑に変化する環境に適応するために、相反するような志向や価値判断の基準を同時にいくつも持つことができるよう脳を発達させたからである。

 日本人は親切であり、まじめで協調性があるとよく言われるが、実はこれは手放しでは喜べない。日本には古くから「出る杭は打たれる」ということわざがあるように、共同体の中で生き抜いていくためには、人から(あるいは世間から)後ろ指をさされないようにすることが必須だったからだ。そして、残念ながらこの特徴は日本という地理的に隔絶された風土での自然淘汰の中で、遺伝的な形質を勝ち取ったようだ。この特徴は「スパイト行動」と呼ばれ、相手の得を許さないというふるまいのことだ。もっと言えば、「自分が損してでも他人を貶め
たいという嫌がらせ行動」である。要するに、日本人は他人が得するのを許せない、そして、意地でも他人の足を引っ張りたいと考えている。
 他人が得をするのを許せないことが、どちらも得をするWin-winの関係を阻害している。そして、「私が損しているのだから、お前も損をしろ」というlose-loseの関係を誘発してしまう。足を引っ張りあい、誰の得も許さない。抜け駆けする奴は寄ってたかって袋だたきにする。
 このような国民性の中ではイノベーションはなかなか起こりにくい。何か始めようとしても、些末な不具合を見つけては責任追及ばかりに終始する。ネガティブな側面だけがクローズアップされて、規制のオンパレード。これでは、新しいことを始めるインセンティブがない。


 昨今のSNSによる炎上もこれと同じような精神状態である。目立つやつを見つけて、生贄として「正義」という名の下で血祭りにあげる。正義なんて10人いれば10人とも違うのに、自分の正義こそが唯一絶対と信じて疑わない。恐ろしい世界だ。自分と分かち合えない意見や思想とぶつかったら、まずはそれを興味深く、面白い現象として受け入れてみればいい。相手の正義を打ち負かそうなどと思っていたら、いつまでたっても争いばかりで何の進展もない。もっと人の意見にゆったりと構える必要がある。

凪待ち ネタバレ

 無為な毎日を送っていた木野本郁男は、ギャンブルから足を洗い、恋人・亜弓と彼女の娘・美波とともに亜弓の故郷である石巻に移り住むことに。亜弓の父・勝美は末期がんに冒されながらも漁師を続けており、近所に住む小野寺が世話を焼いていた。人懐っこい小野寺に誘われて飲みに出かけた郁男は、泥酔している中学教師・村上と出会う。彼は亜弓の元夫で、美波の父親だった。ある日、美波は亜弓と衝突して家を飛び出す。亜弓は夜になっても帰って来ない美波を心配してパニックに陥り、激しく罵られた郁男は彼女を車から降ろしてひとりで捜すよう突き放す。その夜遅く、亜弓は遺体となって発見され……。

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 立川談志は生前「落語は業の肯定である」という有名な言葉を残したらしい。私はこの言葉がとても好きだ。世の中に出回っている文学はその対極にあるものが多い。逆境をはねのけて自らの夢をつかんだ話や、傷ついた主人公が再生していく物語、あるいは荒んだ生活をしていた主人公があるきっかけで心を入れ替えて成功していく物語などがある。そのほとんどに共通するのは、主人公の芯の強さである。意志が強く心が折れそうになっても挫けない人々だ。彼らの物語を読んで勇気や力をもらうことも否定できない。

 しかし、人間はそんなにも強くないのではないだろうか?人の意見にふらふらしたり、欲望に屈してしまったり、根気が続かずすぐにあきらめてしまうのが人間ではないだろうか。そういった人間の弱さ、どうしようもなさを談志は「業」と呼び、それを認めていくやさしさがあったのだろう。

 この映画の主人公である郁男はグズでどうしようもないダメ人間である。おそらくこの映画を映画館やDVDで鑑賞している人間とは対極にいる存在だ。だから私を含めてそういった部類の人間からすれば嫌悪感しか抱かない存在である。ギャンブル依存症で競輪がやめられず、怒りを抑えられず、仕事も長続きせず、ヒモ状態である。おまけに、その恋人の稼いだ金をクスねてギャンブルを続けている。しかし、こんなクズでも時折見せるやさしさに騙されてしまう女性がいるのも確かだ。こういった意味で、香取慎吾をキャスティングしたのは正解だ。やっていることはクズでも、女性に愛され、どこか許してしまう魅力がある。

 残念なキャスティングといえば、リリーフランキーだろう。妙に世話を焼き、郁男に必要以上にやさしいところが胡散臭さすぎる。登場人物の中に犯人がいるというセオリーの中では彼しか犯人はいないので、犯人捜しは早々に終わってしまう。だが、この作品は犯人捜しや犯罪の動機、犯人の人生などはテーマではなく、あくまで郁男という男を描いているのでそれでも良かったかもしれない。

 自分がいるとこれからも迷惑をかけてしまうからといって立ち去ろうとした矢先に、闇賭博場へ行って破壊しまくり、やくざに殺されそうになったときに恋人の父親に助けられる。本当にどうしようもない人間である。だが、やくざのところから助けられ、恋人の父親と娘と事務所を出たときに泣き出すシーンにはもらい泣きしてしまった。意志が弱く、迷惑ばかりかけるどうしようもない「ろくでなし」ということは自分が一番分かっているからだ。変われない自分の情けなさに、人目をはばからず泣くシーンは香取慎吾の一番いい演技だった。

 この映画を再生の物語と位置付ける人もいるだろう。しかし、私はそうは思わない。この映画はそこら辺の小説とは違うのだ。彼はそのうちギャンブルを始め、迷惑をかけ、自分のふがいなさに涙するだろう。でも、それが人間である。人はそんなに強くない。たまには「業を肯定する」こんな映画もいいのではないだろうか。

ジャッジ 裁かれる判事 ネタバレ

 

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 有能な弁護士だが真偽よりも勝利にこだわり、金持ちを強引に無罪
することで知られるハンク・パルマー。父のジョセフ・パルマーは世間から信頼を集める判事だったが、そんな父が苦手なハンクは、長らく父と絶縁状態にあった。しかし、ある時、ジョセフが殺人事件の容疑者として逮捕されるという事件が起こり、ハンクが弁護人を務めることに。正義の人である父が殺人を犯すはずがないと信じるハンクだったが、調査が進むにつれて疑わしき証拠が次々と浮上する。(映画.comより)

 以前にも書いたが、アメリカでは父親と息子という関係性を描いた作品が多い。愛情、尊敬、嫉妬、憎悪など様々な感情がモザイクのように絡み合っている脆弱な関係性を描いている。私の勝手な解釈だが、これはアメリカという国の成り立ちが影響しているのではないかと思う。アメリカ建国時から西部開拓時代にいたるまで厳しい環境やネイティブアメリカンとの闘いの中で、生き抜いていかなければならなかった。そして、広大な土地のなかで人々は家族というもっとも小さな世界で暮らしていた。(大草原の小さな家のイメージですね)その中で、父親は一家を支え、守っていくために強く、若々しく、たくましくなければならず、決して弱いところを見せることはできなかった。現代でもそのイメージは変わらず、例えばアメリカの大統領に対してはこのイメージが明らかに求められている。黒人の大統領が生まれても、女性の大統領がいまだにいないのはこの辺も関係しているのではないかと邪推している。

 話がだいぶ逸れてしまったが、父子の関係性に話を戻すと、やがて父親になる息子にとっては、父親は目指す目標でもあり尊敬の対象であるとともに、いつかは追い越さなければならないライバルでもある。一方の父親にとっては、たくさんの愛情を注ぐべき子供であるとともに、やがて自分と同じ役割を果たさなければならない弟子なので、厳しく育てなければならない。例えるならば、アメリカの父子はみんな相撲部屋や歌舞伎の親子みたいなものなのだ。したがって、とても微妙な関係にならざるを得ない訳だ。

 さて、映画に戻ると、ハンクとジョセフはそんな微妙な関係をこじらせつづけた親子である。父親は厳格な判事で、頑固な父親ではあり、息子への愛情や自分の弱さを表に出すことができない。一方、息子も父親を敬遠しながらも、認めてもらいたい、愛されたいという思いをなかなか表に出すことができない。そして、ここまでこじれてしまった理由が、映画を通して少しずつ分かってくる。しかし、肝心なところがわからない。

 そして、この映画の素晴らしいところは、法廷という場所を舞台にすることで、初めてこの親子の確執とひき逃げ事故の本質が明らかにされるところだ。素直になれず、弱さを見せることができない父親は、証言台に立ったことで、真実を、思いのたけを語ることができたのだ。その真実とは、ドラッグでハイになり、自動車事故を起こし将来有望だった兄の野球人生を台無しにしてしまった息子に対して、必要以上に厳格な処罰を下した。その負い目から息子と同じ年の犯人に、息子を重ね合わせて判断を誤り、大甘の処罰をし、結果的に殺人を誘発してしまったこと。そして、さらにその負い目から、今度は息子に犯人を重ね合わせて、つらく当たってしまっていたこと。

 証言台での父親の告白のシーンは本当に素晴らしかった。この映画はひき逃げ犯人を見つける推理劇でもなく、法廷劇でもない。「裁かれる判事」は息子への想いを裁かれていたのだ。

ザリガニの鳴くところ ネタバレ

 

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ノース・カロライナ州の湿地で男の死体が発見された。人々は「湿
地の少女」に疑いの目を向ける。6歳で家族に見捨てられたときから、カイアは湿地の小屋でたったひとり生きなければならなかった。読み書きを教えてくれた少年テイトに恋心を抱くが、彼は大学進学のため彼女のもとを去ってゆく。以来、村の人々に「湿地の少女」と呼ばれ蔑まれながらも、彼女は生き物が自然のままに生きる「ザリガニの鳴くところ」へと思いをはせて静かに暮らしていた。しかしあるとき、村の裕福な青年チェイスが彼女に近づく…みずみずしい自然に抱かれて生きる少女の成長と不審死事件が絡み合い、思いもよらぬ結末へと物語が動き出す。

  この小説全体を通して描いているのは、一人の女性の成長物語である。いや、成長などという生易しい言葉はふさわしくない。6歳で家族にもコミュニティにも見捨てられた少女が人間として生き抜いていった物語である。
わずか6歳の少女が人として生きていくことは大変である。一歩間違えれば、オオカミに育てられたというオオカミ少女のようになっていただろう。もちろん、それはそれで、母オオカミの愛情を受けて幸せなのかもしれない。逆に、人間らしく生きていくには多くの障害をクリアしていかなければならないので、さらに大変かもしれない。
  マズローの欲求段階というのがあるが、人間が成長していくにはいくつかの段階を経なければならない。「湿地の少女」は自らの努力と数少ない支援者によって、その段階を一歩一歩進んでいった。まず、第一段階として、食べ物の確保が必要だったが、黒人の燃料屋であるジャンピンがやさしく手助けしてくれる。当時のノース・カロライナは黒人差別があたりまえの社会であったが、ジャンピンは同じように蔑まれている少女に同情する気持ちもあっただろうが、何の偏見も持っていない白人の少女であるカイヤとのやりとりはとても温かく感じる。
  次に、第二段階として教養が必要だ。人は考える葦であって、そのためには文字を覚え、他者の考えや感情を知らなければならない。そのとき現れるのがテイトである。文字を覚えたことで、様々な詩に触れることができ、湿地の生態系についても学ぶことができるようになった。 
  そして、第三段階の愛の欲求もテイトによって叶いそうになるが、若いテイトはその愛情を受け入れることができなかった。そのために、カイヤはチャラいチェイスへと想いを寄せていくことになる。これが悲劇の始まりになるわけだが、誰かに想いを寄せることは人として当たり前の感情であるので、このどうしようもない男のまやかしの優しさに溺れてしまったカイヤを批難することはできない。
  それから、社会的な承認欲求が満たされることになる。ここでもテイトが支援し、彼女が調べ上げた湿地の生態系についての本が出版され、彼女は生物学者としてそれなりの社会的認知を受けることになる。そしてついに、テイトとの幸せな日々を迎え、愛情と所属の欲求を満たされることになるのだが、チェイスによってその安寧な日々が脅かされようとしたときに、彼女は生きていくために大きな選択をするわけだ。自ら生き抜いてきたカイヤはこれからも安心して生きていくために殺人を犯す。これは彼女が生きていく上で不可避のことだった。
  世の中は人も制度もすべて不完全だ。前向きに逃げずにたくましく自分が幸せになるようにどうやって生きていけばいいのか。彼女は考えに考えて、そして選択した。そのことを誰も批難することはできない。彼女のこのサバイバルストーリーは生きることの意味をわれわれ読者に投げかけている。そして、そこにはいつもテイトがいた。だから、この物語はテイトとの愛の物語といっても良いかも知れない。

新型コロナ騒動記

 現代社会で一番力を持っている、あるいは影響力のあるものは何だろうか。それはおそらくマスコミが作り出す空気感ではないだろうか。その空気感によって、善良なる民衆はある一定方向に思考が向き、それを世論という形でマスコミが固定化する。そして、それに従って政治家が判断を下す。ここ最近の流れを見ているとこういった一連の動きが繰り返されているきがする。たしかに、SNSの発達により、マスコミとは違う論調が出てきてはいるが、まだまだマスコミのカウンターパートと言えるほどの力はない。むしろ、検察庁法案や種苗法改正案などにおけるSNSの活用を見ていると、マスコミの増幅装置となっている。
 さて、いまさらこのようなマスコミ批判を繰り返してもしかたがない。今回の目的は新型コロナウイルスについて自分なりの考察をすることだ。おそらく、10年、20年後にこの騒動は歴史の中で大きく取り上げられることになるだろう。その時、自分がどのように考えていたかを知るための備忘録として書き記していきたい。
 マスコミは相も変わらず毎日感染者数を大々的に報道している。過去最多とか、曜日別最多とか、週平均最多とか、とにかく多ければ多いほど報道に熱が入る。まるで、台風接近中にやたらはりきっているおやじのようだ。そして、重症者数が増えていくことに言及して、「医療崩壊だ」と叫んでいる。ところが、意図的かは分からないが、彼らは肝心の情報を我々に伝えてはくれない。私が知りたいことを列挙し、自分で調べた範囲のことを付け加えておく。

①重症者の定義と本当のコロナによる死者数。
 (1)ICU(集中治療室)で治療、(2)人工呼吸器を使用、(3)ECMO(体外式膜型人工肺)を使用——この中のいずれかに当てはまる場合を“重症”と定義しているのが厚労省です。一方の東京都は、ICUにいる患者の中で、人工呼吸器もしくはECMOを使用していない患者を重症者の集計から除外しました。(2)か(3)に当てはまる患者だけを“重症”と定義した。

 まあ、どちらが正しいかなどは専門家でもないのでわかりませんが、問題なのは毎日見る数字の定義がばらばらである事です。他国の重症者の定義を調べたがわかりませんでしたが、みんな同じということはないでしょう。せめて、国やWHOなどが世界的なパンデミックに対して同じ目線に立てるように働きかけるべきだとは思う。

②各国によるCT値の違いとその影響
 これもネット情報なので、正確かどうかはわからないが、PCR査におけるCT値も各国でバラバラのようだ。日本、アメリカ、イギリスなど欧米先進国ではCT値40以上、一方で中国や韓国は35くらいだそうだ。PCR検査はコロナウイルスのDNAを増幅してその有無を調べるものだ。最初に5つあれば陽性反応するらしい。
計算してみると 5×2の35乗=約1700億
        5×2の40乗=約5兆5000億
これはかなりの差ではないだろうか。では、CT値を35にした場合、40の場合に比べて陽性者数にどれだけの変化があるのだろうか?調べた範囲ではそれに言及したデータは見つからなかった。専門家会議とかで話されているのだろうか?

③インフルエンザ患者数、死者数との関係
季節性インフルエンザの場合、流行のピークとなる1~2月には、1日で40~50人が亡くなる。12月中旬から新型コロナでの死亡者も大体同じくらいになっている。しかも、2020年6月19日、厚生労働省は各都道府県に「国の基準」で「コロナ死者数」を見直すように通達し、「コロナ感染が分かり、その後死亡した人は死因を問わず、新型コロナで死亡したと全て公表する」となった。つまり、死因が何であれ、PCR検査で陽性と出たらそれはコロナ死者数にカウントされるわけだ。これも、なんとなく我々のイメージとは違う。新型コロナによる肺炎で死亡した人だけではないのだ。そう考えると、「命を守るためには何でもしろ!」という至極まっとうな言葉も嘘っぽく聞こえる。じゃあ、インフルエンザで経済活動をこれほどまでに止めるだろうか?だから、ほおっておけばいいとは言いませんが、やりすぎではありませんか


④第三波と季節の関係
 オーストラリアの感染状況の推移をみると、7月初めから急拡大し、8月10日あたりで最大になり、9月10辺りで収束している。南半球なので日本の感覚で言うと1月初めから急拡大、2月10日最大、3月10日収束となる。要するに冬の時期にははやるということだ。新型コロナをただの風邪とは言わないが、風邪とよく似た性質を持ち合わせていることは確かだ。オーストラリアやニュージーランドのような人口密度が極端に小さい国で、人の移動による影響をあまり考慮しなくてもいいにもかかわらず、このような顕著な数字が表れることが、季節の関係がかなりある事の証拠ではなかろうか。もちろん、南アフリカなど変異種が現れた場合には、第3波というより、第一波として季節との関係はなく感染者が増えていくが、現状の日本においては季節の影響だろう。おそらく、こんご感染者数は2月にかけて一日万単位になり、3月の中頃には落ち着いてくるだろう。緊急事態宣言など関係なく。


⑤各国の指定感染症として取扱い
 日本における指定感染症は5つに分類されている。
1類感染症エボラ出血熱やペストなど)
2類感染症SARSやMERSなど)
3類感染症コレラや腸チフスなど)
4類感染症(肝炎など)
5類感染症(インフルエンザなど)
 そして、新型コロナは令和2年2月1日施行の政令で指定され、次のような措置が実施されることになった(期限は1年で再延長された)

1 感染者に入院や就業制限を勧告する=これは2類以上に適用される措置だ。
2 無症状の感染者にも同じ措置(入院や就業制限の勧告)を取る=これは1類に適用される措置だ。
3 濃厚接触者に外出自粛などを要請する=これは2009~10年に流行した新型インフルエンザに適用された措置だ。
 つまり、新型コロナは2類ないし1類に相当する感染症とみなされている。

 これが明らかにやりすぎだというのは誰でもわかることだが、これまで「危険な感染症」だとしてきたものを急に「インフルエンザ並みの感染症」に変更することは、今の政治家には出来ないだろう。安倍首相が退陣の時の会見で指定感染症の見直しについて言及したが、マスコミはほとんど無視をしていたが、本当は彼が辞める時に思い切ってやってしまえばよかった。今となっては立憲民主党あたりが、「命を粗末にするな!」とかいいそうだし、マスコミもこぞって反対するので無理だ。まあ、こういう時こそ専門家会議で客観的に判断してもらいたいが、あまりにも頼りなさ過ぎて無理でしょう。

⑥GO TOとの関係
 11月からずっと、マスコミでは「GO TOキャンペーンやめろ!」キャンペーンが行われていて、東京発着、そして最終的に12月18日に禁止された。もし、go to が主要因だったとしたら、年明けには効果が見られるはずであるが、そうはなっていない。マスコミは政府の施策を潰したらそれで終わりであり、検証もしないなあと思っていたら、先日の新聞の片隅に「go to 停止 空振り」という見出しがあった。おいおい、それってひどくないか?マスコミがあれだけ騒いで停止させておいて、空振りで済ませるのはどうなんだろうか?魔女狩りのごとく、次から次へと犯人探しに明け暮れるマスコミに辟易する。

医療崩壊の理由、日本医師会との関係
 これも指定感染症との関係で2類相当にしているので、対応している病院がものすごく限られている。10万床と言われる東京の病床数に比して、コロナ用のベッドは3000あまり。主に公立の病院だけが苦労して引き受けているのが現状である。日本医師会は開業医の組合なので、彼らは基本的にはコロナ対応の外にいる。その割にテレビで医療崩壊を叫んでいるのは、医師会関係の人々である。プライベートも削ってコロナに向かっている医療従事者が、テレビのワイドショーにのんきに出ていられるわけがない。そんな暇があるなら、現場で手伝えば?

⑧専門家委員会の役割
 尾身会長を中心とした専門家会議ですが、何をしているのかよくわからない。人の接触を避けてとか、緊急事態宣言が必要だとか、ステージ4だとか、医療崩壊が近いとか、言っていることは小池知事と大差ない。全然専門的な内容がない。上に書いたような事柄について専門家として正しい知識を国民に教えてほしい。マスコミの素人コメンテーターの言っていることが正しいと思っている我々にデータに基づいた冷静な分析をしてほしい。人気商売である政治家ができない身を切る提言をしてほしい。無理か・・・


 こうやって今思っていることをつらつら書いてみたが、正直言って絶望感しかない。政治はいったん決めたことを変えることができない。政治家の皆さんもバカではないので、みんな「ちょっとピンとずれてるなあ」とおもっているはずだ。でも、「まあいいか、自分が矢面に立つ必要もないか」くらいにしか考えていないのだろう。こんなに市中感染が広まっているのにいまだにクラスター対策やっている虚しさ。もうそんな時期はとっくに過ぎているのに、ねずみ講のように濃厚接触者をひたすら追い求めている。資源の無駄使い以外の何物でもない。しかし、「コロナから命を守る」という誰も反対しえないお題目の下では何もできない。
 暖かくなる3月中旬には少しずつ収まっていくでしょう。でも、そのときには立ち直れないくらいに日本は疲弊しているだろう。残念だ。

追憶のかけら

 すごい作品である。今年読んだミステリーの中でもベスト3に間違いなく入る作品だ。事故で愛妻を喪い、失意の只中にあるうだつの上がらない大学講師の松嶋が、無名作家の未発表手記を入手する。その作家の自殺の真相を究明しようと調査を開始するが、そこには彼を堕としめる罠が張り巡らされていた。
 読む手が止まらない小説はそれなりにある。だが、先を読みたいが、読み切ってしまうのがもったいないと感じる小説はめったにない。本作品はまさしくそんな小説だった。まず、無名作家の未発表手記が面白い。戦後の混乱期の人探しとそれにかかわった人々の不幸な出来事を書いてあるだけだが、ついつい読んでしまう。その魔力の一つは、ある人の善意に基づく行動が、別の人にとっては厄災でしかなく、それによって生じた悪意がブーメランのように善意ある人の周辺にまき散らされる恐ろしさである。浮世離れした高等遊民であった無名作家はそれに気づかずに、周囲の人を不幸にし、自らも失意のうちに死を選んでしまう。彼の作品に「乱反射」があるが、バタフライエフェクトのようにつながっていく恐ろしさは共通のものであるが、善意を発端としているためにさらに空恐ろしい。
 そして、大学講師の松嶋も自殺の真相を究明していくほどに傷ついていく。手記が贋作であることは読んでいくとうすうす気づくのだが、話が二転三転して、犯人がなかなかつかめない。「こいつが犯人だ」と思わせておいて、あらたな事実によって謎が深まっていく。この展開が良く練られていてとても面白い。作者はこのプロットを基本として物語を組み立てていったのだろう。
 しかし、敢えて気になる点をいくつか挙げてみる。まず、松嶋が騙され過ぎる。もちろんお人よしという設定なので、人間性を見抜けず騙されるのは致し方ないが、かりにも国文学者を名乗っているのであるなら、手記が贋作であることに気づかないのはおかしい。紙やインクを調べたり、時代考証をするのは基本のキであろう。そして、松嶋を貶めていた真犯人の動機があまりにもお粗末だ。息子の恋人を奪った男への復讐では、最後に拍子抜けしてしまう。また、松嶋が酔わされて悪友に風俗に連れていかれたことに腹を立てて、子どもを連れて家を出ていった妻の行動もどうなんだろうか。
 私は松嶋の事件と無名作家の事件をもう少しリンクさせてもよかったと思う。つまり、善意が悪意を生むという設定ができなかっただろうか。そこに、松嶋の妻が欠点の見つからないような恋人を振ってまで、松嶋と結婚した理由を絡めることはできなかったのだろうか。松嶋の妻が起点となる善意が巡り巡って、松嶋を貶めていくような展開だとさらに良かった気がする。そうでもしないと、彼女が松嶋を選んだ理由がちょっとしたエピソードだけでは納得いかない
 とまあ、偉そうなことを書いてしまったが、妻を一瞬でも疑ってしまった松嶋が、写真見ながら彼女との思いでに浸る場面は、まさに「追憶のかけら」にふさわしい。そして、手記に登場してくる人々が「追憶のかけら」のなかで集めていく様子も素晴らしい。