凪待ち ネタバレ

 無為な毎日を送っていた木野本郁男は、ギャンブルから足を洗い、恋人・亜弓と彼女の娘・美波とともに亜弓の故郷である石巻に移り住むことに。亜弓の父・勝美は末期がんに冒されながらも漁師を続けており、近所に住む小野寺が世話を焼いていた。人懐っこい小野寺に誘われて飲みに出かけた郁男は、泥酔している中学教師・村上と出会う。彼は亜弓の元夫で、美波の父親だった。ある日、美波は亜弓と衝突して家を飛び出す。亜弓は夜になっても帰って来ない美波を心配してパニックに陥り、激しく罵られた郁男は彼女を車から降ろしてひとりで捜すよう突き放す。その夜遅く、亜弓は遺体となって発見され……。

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 立川談志は生前「落語は業の肯定である」という有名な言葉を残したらしい。私はこの言葉がとても好きだ。世の中に出回っている文学はその対極にあるものが多い。逆境をはねのけて自らの夢をつかんだ話や、傷ついた主人公が再生していく物語、あるいは荒んだ生活をしていた主人公があるきっかけで心を入れ替えて成功していく物語などがある。そのほとんどに共通するのは、主人公の芯の強さである。意志が強く心が折れそうになっても挫けない人々だ。彼らの物語を読んで勇気や力をもらうことも否定できない。

 しかし、人間はそんなにも強くないのではないだろうか?人の意見にふらふらしたり、欲望に屈してしまったり、根気が続かずすぐにあきらめてしまうのが人間ではないだろうか。そういった人間の弱さ、どうしようもなさを談志は「業」と呼び、それを認めていくやさしさがあったのだろう。

 この映画の主人公である郁男はグズでどうしようもないダメ人間である。おそらくこの映画を映画館やDVDで鑑賞している人間とは対極にいる存在だ。だから私を含めてそういった部類の人間からすれば嫌悪感しか抱かない存在である。ギャンブル依存症で競輪がやめられず、怒りを抑えられず、仕事も長続きせず、ヒモ状態である。おまけに、その恋人の稼いだ金をクスねてギャンブルを続けている。しかし、こんなクズでも時折見せるやさしさに騙されてしまう女性がいるのも確かだ。こういった意味で、香取慎吾をキャスティングしたのは正解だ。やっていることはクズでも、女性に愛され、どこか許してしまう魅力がある。

 残念なキャスティングといえば、リリーフランキーだろう。妙に世話を焼き、郁男に必要以上にやさしいところが胡散臭さすぎる。登場人物の中に犯人がいるというセオリーの中では彼しか犯人はいないので、犯人捜しは早々に終わってしまう。だが、この作品は犯人捜しや犯罪の動機、犯人の人生などはテーマではなく、あくまで郁男という男を描いているのでそれでも良かったかもしれない。

 自分がいるとこれからも迷惑をかけてしまうからといって立ち去ろうとした矢先に、闇賭博場へ行って破壊しまくり、やくざに殺されそうになったときに恋人の父親に助けられる。本当にどうしようもない人間である。だが、やくざのところから助けられ、恋人の父親と娘と事務所を出たときに泣き出すシーンにはもらい泣きしてしまった。意志が弱く、迷惑ばかりかけるどうしようもない「ろくでなし」ということは自分が一番分かっているからだ。変われない自分の情けなさに、人目をはばからず泣くシーンは香取慎吾の一番いい演技だった。

 この映画を再生の物語と位置付ける人もいるだろう。しかし、私はそうは思わない。この映画はそこら辺の小説とは違うのだ。彼はそのうちギャンブルを始め、迷惑をかけ、自分のふがいなさに涙するだろう。でも、それが人間である。人はそんなに強くない。たまには「業を肯定する」こんな映画もいいのではないだろうか。