Winny ネタバレ

 私がパソコンを手にしたのは1990年代の初頭だった。NECの名機と言われたPC98シリーズを友人から安く譲り受け一太郎やLotas123を使っていた。そして、電話回線を使ってやり取りできるということで、モデムなるものを購入し、友人とパソコン通信をしていた。現在のようにPCを立ち上げると自動的にネットにつながるわけではなかったから、ダイヤルアップといって、接続時に「ピーヒョロロ~」という音を立てながら電話回線につなぎ、そこから伝えたい内容をテキストで送るという感じだった。ホームページを見るといっても、画面が表示されるまでに1分以上かかることもざらで、正直に言ってこんな代物はマニアだけにしか流行らないだろうなあと思っていた。しかし、Windows95が登場し、ADSLというとても速い回線ができ、YahooBB!が、そこらじゅうで無料キャンペーンをしていたりと時代は加速度的に進んでいった。私はそもそもそれほどのヘビーユーザーでもなかったので、そのころには時代からとっくの昔に乗り遅れていた。

 そんな時期に「47氏こと金子勇氏がPC間で直接データをやり取りすることができるファイル共有ソフト「Winny」を開発した。当時を思い出すと、アダルトコンテンツの個人間のやりとりの中で、ウイルスが仕込まれて、情報が流出したといったニュースが結構流れていた。私も単純にWinnyは怖いソフトだと思って手を出さなかった。だから、開発者の金子さんが逮捕されたというニュースを聞いた時にはそれほどの驚きはなかった。単純に恐ろしいソフトを作成した人が逮捕されたという印象に過ぎなかった。
 だが、この映画の中で北尻法律相談事務所の壇俊光弁護士は「ナイフで人を殺した事件があってナイフの製造者が罪を問われるわけがない」と語っている。そこで初めて、あの時の捜査や逮捕が無理筋であったことに気づいた。著作権侵害幇助という逮捕名義も、著作権侵害が民事であり、著作権保有者が原告になるべきなのに検察が原告になっているという不自然さも全く分からなかった。私を含めて多くの国民はマスコミや警察の印象操作にまんまと乗っていたわけだ。
 映画では同時期に京都府警の情報がWinnyを通じたウイルス感染で流出したというニュースも流れる。警察内のPCでWinnyを使った署員がいたことや不適切な情報が流出してしまったという不祥事を隠蔽し、警察もWinnyの被害者であるといった印象を持たせるために、金子さんを逮捕したというストーリーをほのめかしている。しかし、より重要なのは、同時に愛媛県警内部で行われていた裏金作りで、愛媛県警の裏金を実名で公表した仙波氏登場だろう。
映画の中で、Winnyを作った目的は違法ダウンロードやアップロードではなく、匿名のまま著作物を広く公開出来ることであったといっている。仙波さんは公表後身の危険を感じているが、Winnyを使って公表していればそういったこともなかったはずだ。もし、金子さんが脆弱性を補完するようなプログラムをつけくわえていれば、ウィキリークスの先を行くシステムが構築されたかもしれない。2009年に最高裁で無罪判決が出るまで、金子さんはプログラムを自由にすることはできなかったという。天才プログラマーの貴重な時間が失われてしまったのは残念で仕方がない。
 
 日本では、100パーセントの安心安全が担保されないと、物事が進まなくなってしまったのはいつからだろうか。小池都知事築地市場豊洲への移転に際して、「安心安全」と声高に叫び、安全性が確認できても「安心と安全は違う」などと訳の分からないロジックを言い出し、主観的な感想である「安心」がフォーカスされてしまった。しかし、その流れはそれよりずっと前にすでに始まっており、バブル終焉後の日本に少しずつ蔓延していった気がする。
 そして、最近ではそれが行き着くところまできている。例えば、福岡第一原発の処理水にしても、科学的な安全性が担保されているにもかかわらず批判が絶えないのは、「安心」できないからだ。さらに言うと、原発そのものも旧型と新型の区別もわからないまま、「危険だから稼働させない」という声が大きい。マスク着用についても、科学的な根拠があまり明示されないなかで(一説には密着させた状態で着用すれば20%ほど感染リスクを抑えられるようだ)マスクを外す、外さないといった議論がずっと続いている。だが、偉そうなことを言っている自分自身も「安心か?」と尋ねられたら不安を隠しきれない。結局誰かがファーストペンギンとして先頭を切って歩いている後ろについていく程度のことしかできない。
 もし仮に、現代社会に初期型の自動車が登場したとしたら、おそらく日本では利用できないだろう。シートベルトもなく、エアバッグも自動ブレーキもない自動車は走る凶器である。きっと「人命が危険にさらされる!」という理由で自動車会社は訴えられるだろう。だが、科学は先人たちの無数の犠牲の上に進歩してきたのだ。自動車はフォードが大量生産を始めてから100年以上の時間をかけて、少しずつ安全性を高めてきたのだ。決して一足飛びにすべての人が「安心」を感じるような製品になったわけではない。
 おそらく我々日本人は犠牲を冒してまで進歩することを望んではいないのだろう。ある程度現状に満足した状態で、リスクを取ってまで何かにチャレンジするメリットがないのだ。そうやって、日本は「失われた30年」を過ごし、これからも同じように過ごしていくのだろう。
 Winnyを含めて、ネット上の様々な技術革新にチャレンジしていれば、ITの覇権をアメリカだけに握られることはなかったかもしれない。ドローンの技術を進歩させていれば、ドローン輸出大国の座を中国にとられなかったかもしれない。3Dプリンターを実用化までこぎつけていれば・・・。歴史にIfは禁句だが、そう思わずにはいられない。
 
 どんなに有益で素晴らしいアイデアであろうと、使い手によって悪魔の道具になってしまうこともある。しかし、人類は少しずつ悪魔の手からその道具を取り戻してきた。悪魔が使うかもしれないからといって、イデアを抹殺することは罪だ。我々はそうならないような知恵と勇気を持っていると信じたい。