20世紀の歴史

 とても興味深い本である。20世紀を俯瞰的に眺め「長い20世紀」として1880年代から2000年までの流れを描いている。

 この長い20世紀を一言で言うなら帝国主義の隆盛と衰退であろう。そして、そのエポックメイキングな事件は第二次世界大戦ではなく、第一次世界大戦である。WW1以前は英仏などが植民地支配を好きなように行って我が世の春を謳歌していた時代だ。しかしWW1を経て、民族自決の機運が高まることで、時代は大きく変化していく。そこを敏感に察知した英仏など帝国主義の先発国は植民地拡大路線をやめて、現状維持を目論んで民族自決を上部だけ賛成したような態度を取った。しかし、後発組の日独伊あたりは、空気を読まず時代遅れの植民地拡大を目指した。まあ、後発国なだけに植民地が少なかったことが主な原因であろうが。

 その拡大路線に対して、先発国が取ったのがいわゆる「宥和政策」である。これが失敗であり、日本の軍部やナチスを増長させてしまったわけだ。そして行き着く先はWW2である。ここで、連合国は大量の植民地の人々を動員した結果、WW2後には独立運動に悩まされることになった。東南アジアにおいて先発国が独立運動に抵抗したが、最終的には植民地は独立を勝ち取った。だが、100年以上にわたる植民地支配のせいで、社会が変容してしまったので、旧植民地ではなかなか安定した政治が行われなかった。

 まとめるとざっとこんな内容である。(多分)それでは、21世紀はどんな時代になるのだろうか?歴史は繰り返すというので、私は二つの未来があるように思う。一つ目は中国の隆盛と衰退というシナリオだ。現代中国は全方位的に拡大路線である。南シナ海南沙諸島東シナ海尖閣諸島、インドやブータンへの進攻などなどWW1後の日独伊のようだ。そして、アメリカはオバマ時代に「戦略的忍耐」というわけのわからない宥和政策をとっていた。その間中国の力は増大し、もはや向かう所敵なしである。しかし、歴史が繰り返すとしたら、拡大の後に待っているのは日本やドイツのような最後である。しかし、もう一つのシナリオもある。考えてみると「長い20世紀」の前には有史以来ずっと中国が世界の中心で最強あった。と考えるとイレギュラーな20世紀の後には元のような世界が現れるかもしれない。

 まあ、私は歴史家でもないし、専門家でもないので、素人の戯言でしかない。しかし、そんなことを考えたくなるほど本しょは知的好奇心をくすぐる作品であることは間違いない。

罪の声 ネタバレ

f:id:scarecrow-man:20201114115351j:plain

 実際にあったグリコ森永事件をモチーフに過去の事件に翻弄される2人の男の姿を描く、塩田武士のミステリー小説「罪の声」の映画化である。事件で使われた犯行グループの脅迫テープは3人の子どもの声を使用していたが、京都でテーラーを営む曽根俊也は、父の遺品のカセットテープに録音されていた自分の声が、30年以上前に複数の企業を脅迫して日本中を震撼させた、あの事件の脅迫テープの声と同じだと気付く・・・

 まずは謎の多いグリコ森永事件を子どもの声で吹き込まれた脅迫テープからひも解いて全体像を明らかにしていく著者の想像力と構成力に脱帽する。劇場型犯罪のハシリと言われ、結局金銭の授受がなかったと言われているが、株の空売りによって利益を得ていたという筋立ても面白い。そして、35年前の未解決事件の謎が次々と解明されていくことには少し出来すぎの感じがしないでもないが、キツネ目の男の正体がわかった場面は身震いがした。
 だが、本当に伝えたかったのは「罪の声」を背負わされた3人の子供たちの人生だろう。マル暴の刑事だったが、汚職でクビになった、実行犯の一人である生島の二人の子供と犯行の計画を立案した曽根達雄の甥である俊也だ。この二家族の子供たちは全く異なる人生を歩むことになる。生島の子供達は主犯格の青木に拉致され、逃亡後もずっと青木の追跡を恐れて社会の片隅でじっと息をひそめていた。その一方で、俊也は何も知らずに平凡ながらも幸せな人生を歩んでいた。この対比が一層、生島姉弟の人生の悲惨さを色濃くしている。いまよりも児童保護という観点が薄かった当時は、このような親の不始末に人生を左右された子供たちはたくさんいたと思う。
 そして、全共闘世代が持っていた権力への反抗心もラスト近くで明らかになる。そもそも俊也に脅迫テープを吹き込ませたのは母親だ。現代的な視点で見るとこの母親の行動は理解できない。しかし、学生運動の残り火を少しだけ見てきた私にはなんとなく理解できる気がする。強大な権力のもとで国民を束縛し、同士達を傷つけた国家の手先である警察に一矢報いたいという気持ちが、子どもの将来への一抹の不安に勝ったということだろう。そして、そのテープは戦利品としてずっとしまわれていたのだと思う。
 人間の思考回路は何十年経とうともそうは変わらない。全共闘を戦った人間はいつまでたってもその想いはそれほど変わらないし、ヒッピー文化にかぶれた人々は心の片隅にいつまでのその想いは残っているはずだ。そして、時代が変わり、その考えが時代遅れになった時に、自分は変わらず、若いつもりでいるのだが、まわりの人間から考え方が古い年寄り扱いされるのだ。たぶん年を取るというのはそういうことだ。
 野木さんの脚本で原作と大きく変わったところは、新聞記者阿久津の存在だろう。結局、劇場型犯罪を生み出したのは、読者を煽ってきたマスコミだという痛烈な批判が込められている。報道の目的とは何なのか、それを自問し続け、再び社会部へ戻ってきた阿久津にマスコミへの期待と願望を寄せている。しかし、残念ながら彼女の願いは未だにかなっていない。民衆の恐怖心や好奇心をことさら煽り立てて、ときには面白おかしく、ときには脅かしながら、視聴率や販売部数と言った数字ばかりを追っているからだ。昨今の新型コロナ狂騒曲などがその最たるものだろう。だからこそ、巨悪とマスコミに対する怒りは野木さんの作品に通底しているのだろう。

阿蘭陀西鶴 ネタバレ

 井原西鶴と盲目の娘おあいの物語である。初めは自分勝手な西鶴に振り回され、盲目なのに家事の一切をしているおあいが不憫で、「偉人の家族は必ずしも幸福では無いなあ」などと同情していた。しかし、「好色一代男」あたりから、父親の不器用な愛情が少しずつわかってくる。3人の子供のうち自分だけを家に残したこと。当時としては考えられないくらいに、外へ出たり、家事をしたりと自由に行動させていたこと。家に来る客人に紹介したり、話題にしたりして、決して隠そうとしなかったこと。読者はおあいと同時にそのことを知る。そして、おあいが無意識の内に嫌悪していた父親への想いが変わっていくように我々の西鶴への気持ちが変わっていく構成は絶妙である。

 物書きの真髄についても語っている。近松門左衛門との会話では「人は同じ物事での、まるで違う景色を見る。ワシはどないな悲恋でも、何処かに人の滑稽さを見てしまう。けど、あんたの目はそれを美しさと捉えるのやな。あんたの目はそれを美しさと捉えるのやな。深みにはまって滅びに向かう性を、あんたは泣きながら美しいと思う。それが響くかどうかは客が決めることや」弟子の団水に対しては、「巧みな嘘の中にこそ、真実があるのや」とこれまた名言である。スランプに陥って復活した西鶴が到達した小説の真髄であろう。

 そして、最後「世間胸算用」をモチーフにした大晦日に借金取りが立ち去るのを2人で布団に包まって待つシーンは温かくもあり、切ない。異常に痩せた娘に気づき驚く父の腕の中でおあいが心の中でいう

 「お父はん。お父はんのお陰で、私はすこぶる面白かった。多分私は親不孝な娘になってしまうのやろうけど、その時、きっとこう言える。おおきに。さよなら。」

 涙無くしては読みきれない。

アバウトタイム ネタバレ

f:id:scarecrow-man:20201001163238j:plain


 ティムは21歳の誕生日を迎えると、父から、一家に生まれた男た
ちはみんなタイムトラベラーだということを知らされる。いきなり告げられた能力に戸惑いつつ、恋人をゲットするためにタイムトラベルをするようになる・・・
 この映画はSFではない、ファンタジーだ。だから、科学的にタイパラドックスについての詰めの甘さを指摘したところで意味はない。素敵な魔法の力をもらった父子の話とおもえばいい。
 しかし、欧米の映画や小説には父と息子の関係を扱ったものが多い気がする。父親から過度の期待をされて苦しむ息子の話、父親から受け継がれた血統を巡る話や、父親を越えようともがく息子の話など様々だ。「理由なき反抗」「スーパーマン」「ゴッドファーザー」など枚挙にいとまがない。女性の社会進出が進んでいる欧米のわりに、意外と男系家族主義の話が多い。
 さて、話を本作に戻そう。タイムトラベルの力をもった父親の使い方は、同じ日を二度繰り返すというものだった。初めは、一日一日をただ普通に生きる。それから、その毎日をもう一度、全く同じように過ごしてみる。最初の時は緊張や心配で世界がどんなに素晴らしいかわからないけど、二回目はそれに気付くのだ。だが、ティムは別の使い方?を考えた。それは、タイムトラベルを使わないというものだ。二回目のチャンスはないと思って人生を生きるということだ。劇中で彼が言う
「僕たちは皆、人生の毎日を一緒にタイムトラベリングしている。僕たちができることは、最善を尽くしてこの素晴らしい旅を大切にしていくことなんだ。」
 これが、この映画のすべてといってもいい。僕等はみんなタイムトラベラーだ。でも、過去に戻ることはできないし、人より早く未来へ行くこともできない。一歩一歩、一定の速度で進む時間の中を旅していくだけだ。だからこそ、今この時を大切にしなくちゃいけない。そんな当たり前のことを伝えるために、こんな素敵な映画を作るなんて、リチャード・カーティスに脱帽だ。
 これ以外にも印象に残った場面に結婚式での父親のスピーチがある
「私の息子は誠実な心をもった、優しい男です。私は人生で特に誇れることなどあまりありませんが、息子の父であるということをとても誇りに思います。」
このあまりにも謙虚でいて、息子を愛する気持ちが強く伝わるセリフが自分も使ってみたい。そして、父親が子供のまま大きくなったような変わり者のデズモンド叔父さんに言うセリフも後から効いてくる。
 「君のお父さんは良くないみたいだ。癌なんだ」 

「僕はそのことがとっても気にくわないんだよ。君のウエディングで、君のお父さんは僕を愛しているって言ったんだ」

「あの日が僕の人生で最高の日だったんだ。今日は多分最悪の日だよ」
 そして、癌に侵された父親とタイムトラベルで何度も訪れていたティムとの最後のシーンがたまらなくいい。父親と少年時代のティムが手をつないで海岸を歩くのだ。僕にも息子がいるので、痛いほどわかる。既に自分よりはるかに大きくなってしまった息子が小さな手で僕の手を握りしめて歩いていた時間はたまらなく愛しい。出来ることなら、もう一度だけあの日に戻りたいと思うこともある。でも、それは決してかなうことのない夢だ。しかし、僕は後悔などしてはいない。僕はあの時の小さな手の感触を決して忘れることはないから。

殺人の追憶 ネタバレ

 

f:id:scarecrow-man:20200930152817j:plain


 1986年から1991年にかけて大韓民国の京畿道華城郡周辺で
10名の女性が殺害された韓国史上最初の未解決連続殺人事件、いわゆる華城連続殺人事件をモチーフとした映画である。
 韓国人は自国の戦後史について、我々日本人以上に、高い問題意識を持っているようだ。日本は戦後復興の中で右肩上がりに豊かになっていったからだろうか、60年安保や全共闘などをテーマにした映画があっても、全国的な盛り上がりは起こらない。一方の韓国では、朝鮮戦争からの激動期を描いた「国際市場で会いましょう」、1980年の光州事件を扱った「タクシー運転手」、そして、全斗煥大統領の軍事政権下で起こった本作など、軒並み韓国史上最大のヒット作となっている。彼らにとってそれは戦前とは違い、皮膚感覚をもった痛みだからであろうか。
 さて、話を本作に戻すと、映画で真っ先に感じるのは警察のあまりに杜撰な操作である。刑事の勘だけを頼りに容疑者を連行し、拷問によって自白させる様子は恐ろしい。そして、それを客観的に見れば滑稽でもある。ポンジュノ監督の「母なる証明」でも、警察のずさんさや無能さを揶揄しているシーンが多々あった。だが、このことは隣の国の出来事だと笑っていられるのもではない。近年、日本において多くの再審があり、冤罪と認定されるケースがある。それを見ると昭和の時代には、自白を強要され、そのことをもって死刑判決や無期懲役の判決が下されたようだ。科学的な操作がない時代は、ほとんど近世と変わらない状況だったことを忘れてはいけない。
 そして、ソンガンフォ演じる勘だけで捜査をしてきた田舎刑事と、「書類はウソをつかない」と語る、現代的な都会の刑事との対比が面白い。普通の展開を考えれば、客観性を重視した捜査へと変わっていく過程を描くのだろうが、本作では、田舎刑事は容疑者が目まぐるしく変わっていく中で、自らの勘に自信が持てなくなっていき、都会の刑事は、あまりにも惨たらしい犯罪の中で、自らが信じていた客観的なテータ(DNA鑑定)の限界に気付き、最後には、衝動的に容疑者を射殺しようとまでしてしまう。結局、どちらもこの猟奇的連続殺人に対して無力であることがはっきりとしてしまうのだ。
 また、有名な最後のシーンはやはり衝撃的である。刑事をやめた田舎刑事が最初の殺人があった現場の側溝を眺めていると、少女が少し前にも同じようなことをしていたという場面だ。猟奇的殺人者は自己顕示欲が強く、自分の行為を振り返って悦に浸ることが多いそうだ。殺人現場にきた男こそ、真犯人であるとわかったソンガンフォがスクリーン越しに真っすぐこちらを向いて映画は終わる。そこには現実の犯人に対するメッセージだけではなく、見るものすべてに、「忘れるな!まだ、終わっていないんだ!」という監督の想いを伝える力があった。

歴史の教訓 失敗の本質と国家権力

 工業化は、昆虫の変態のように社会全体を激変させる。工業化に焦れば焦るほど、伝統社会を強権的に破壊し、作り直したいという衝動が出る。人のものの考え方は急激には変わらないからである。後発の工業国ほど独裁権力人寄る人工的な社会変革を求める。その途中で富が社会の上層部に遍在すると、社会全体を独裁的権力で作り直そうという強権的再配分の衝動、あるいは社会の破壊の衝動が出る。それが全体主義である。
 その全体主義に走った日独伊のうち、最初に動いたのが日本であった。1931年日本は満州事変を引き起こした。これは関東軍参謀石原による作戦である。戦術的には1万の兵力で10万の兵力を倒し、満州を奪ったので、戦術では成功したが、戦略としては失敗したと言える。『統帥権の独立』を盾にしながら、天皇を無視して勝手に行動した。
同じく、真珠湾攻撃を立案した山本五十六も戦術的には大成功をおさめたが、中立だったアメリカを連合国側に参戦させ、枢軸国側を一気に劣勢にしたので、戦略的には大失敗であった。戦闘で勝って、戦争に負けたのだ。
 昭和の軍人の虚栄心と功名心が「負けるからやれない」と言えなかっただけであり、獲得した巨額予算を使わなければならないといった気持ちもあっただろう。
負ける戦争は絶対にやってはいけない。何を犠牲にしてもやってはいけない。それは国家と国民に対する裏切りである。
歴史は繰り返す、おろかな歴史ほど。
結局のところ、ロシア(ソ連)の南下による占領を恐れて、朝鮮半島を緩衝地帯とするという明治期の戦略から、元老の力が弱まった昭和初期には、過去の成功体験に基づく虚栄心と功名心をもった軍部が統帥権の独立を盾にして、時代遅れの植民地主義という幻想を抱いて、中国大陸という底なし沼に足を突っ込んでしまったというところだ。
しかし、本書の残念なところは、これほど明治以降の日本の失敗の本質を分析しているにもかかわらず、第二部のこれからの日本の戦略になると、国際協調やら価値観外交やら抽象的な話になり、過去の失敗からの戦略としては少し寂しいのが問題である。海軍と陸軍が縦割りになっていたところや、一旦始めてしまうとよほどのことがない限りやめることができないところなど、現代にも通ずる失敗がたくさんある。こういったところの切り口がないのが残念だ。これが、歴史から学ぶことの難しさなのだろうか。

yesterday ネタバレ

 

f:id:scarecrow-man:20200919103550j:plain


もしビートルズが存在しない世界に一人で放り込まれたら・・・。
これはビートルズ愛にあふれたファンタジー映画だ。売れないミュージシャンのジャックが音楽を諦めかけたそのとき全世界で20秒間だけ停電が起きて、ビートルズのいない世界になっていた。彼は覚えている限りの曲を世に送り出していく。
 私はビートルズの熱烈なファンというわけではない。しかし、彼らの曲はだいたい知っているし、お気に入りの曲もある。そういったおそらく平均的な人にとってビートルズの素晴らしさを改めて感じることができる作品だ。
 ビートルズのいない世界で初めて歌った「イエスタデイ」はジャックの友達だけでなく、私もぐっときた。良い曲には理屈もいらない。もちろん、その曲の作成過程やバックボーンを知っていればもっと良いかもしれないが、そんな知識がなくても人の心に刺さるものだ。しかし、どんなに良い曲でも大衆に伝える術がなければ有名にはならない。場末のバーで歌っているだけでは、多くの人が知ることもない。ところが、彼はタダでCDを配り、それが話題となりTV出演、そのときの様子を有名ミュージシャンが見ていて、彼のコンサートの前座とし
て採用され、その様子がYoutubeで配信され・・・とトントン拍子でスターダムをのし上がっていく。この過程の描写は妙にリアルである。
 話は少し逸れるが、現代社会はSNSの発達によって、大衆へのアクセスが昔に比べ飛躍的に容易になった。ドルチェ&ガッパーナの「香水」という曲もTIKTOKから火がついて大ヒットしている。橋本環奈が地方アイドルから全国区になったのもSNSの写真からだった。そう考えると1960年当時にビートルズが世界を席巻したのは、運もあるが、名プロデューサー ジョージ・マーティンの手腕が大きかったのだろう。
 さて、映画に戻ると、ビートルズの曲が実に効果的に使われている。モスクワでのコンサートでは「Back to the USSR」、どうして良いか分からなかったときには「Help」、歯医者での会話では「With a little help from my friend」、彼女への告白場面では「All you need is love」など実にマッチしている。そして、改めて歌詞をみてみると、なんとなく聞いていた詩の素晴らしさに気づく。
 主人公はビートルズの曲を盗作していることに良心の呵責を感じている姿も好感が持てる。そんなときにビートルズを知っている二人と出会うのだが、かれらに「ビートルズを世に出してくれてうれしい」と言われてほっとする。それは大好きな食べ物がこの世から消えてしまったようなものだ。自分だけが知っているおいしい食べ物。でも、もう食べることができない。そんなときにその食べ物を与えてくれる人が現れたようなものだ。
 だが、ジャックはビートルズの曲を世に出す意義は見いだしたが、それに自分の名がクレジットされていることには相変わらず苦悩しているようだった。そんなとき全く違う人生を送っているこの世界ジョン・レノンに出会う。このシーンが実に良い。ジョンが生きていたらこんな感じだと思わせる演技も素晴らしいし、悩んでいるジャックにかける言葉も彼が言いそうな言葉だ。
 「好きな人に好きといえ」「できる限りの力でみんなに真実を告げるんだ」
このときジャックは嘘をつくのはやめて、彼女に愛を伝えることを決めた。彼がジョンをハグしたとき、私もハグしたくなった。
「生きていてくれてありがとう、ジョン。そして、答えを教えてくれてありがとう、ジョン」

「得ることは失うことだ。」しかし、その逆もまたある。「失うことで得ることもある。」ジャックと同じように私もビートルズのいない世界で、ビートルズの素晴らしさを改めて知ることができた。