追憶のかけら

 すごい作品である。今年読んだミステリーの中でもベスト3に間違いなく入る作品だ。事故で愛妻を喪い、失意の只中にあるうだつの上がらない大学講師の松嶋が、無名作家の未発表手記を入手する。その作家の自殺の真相を究明しようと調査を開始するが、そこには彼を堕としめる罠が張り巡らされていた。
 読む手が止まらない小説はそれなりにある。だが、先を読みたいが、読み切ってしまうのがもったいないと感じる小説はめったにない。本作品はまさしくそんな小説だった。まず、無名作家の未発表手記が面白い。戦後の混乱期の人探しとそれにかかわった人々の不幸な出来事を書いてあるだけだが、ついつい読んでしまう。その魔力の一つは、ある人の善意に基づく行動が、別の人にとっては厄災でしかなく、それによって生じた悪意がブーメランのように善意ある人の周辺にまき散らされる恐ろしさである。浮世離れした高等遊民であった無名作家はそれに気づかずに、周囲の人を不幸にし、自らも失意のうちに死を選んでしまう。彼の作品に「乱反射」があるが、バタフライエフェクトのようにつながっていく恐ろしさは共通のものであるが、善意を発端としているためにさらに空恐ろしい。
 そして、大学講師の松嶋も自殺の真相を究明していくほどに傷ついていく。手記が贋作であることは読んでいくとうすうす気づくのだが、話が二転三転して、犯人がなかなかつかめない。「こいつが犯人だ」と思わせておいて、あらたな事実によって謎が深まっていく。この展開が良く練られていてとても面白い。作者はこのプロットを基本として物語を組み立てていったのだろう。
 しかし、敢えて気になる点をいくつか挙げてみる。まず、松嶋が騙され過ぎる。もちろんお人よしという設定なので、人間性を見抜けず騙されるのは致し方ないが、かりにも国文学者を名乗っているのであるなら、手記が贋作であることに気づかないのはおかしい。紙やインクを調べたり、時代考証をするのは基本のキであろう。そして、松嶋を貶めていた真犯人の動機があまりにもお粗末だ。息子の恋人を奪った男への復讐では、最後に拍子抜けしてしまう。また、松嶋が酔わされて悪友に風俗に連れていかれたことに腹を立てて、子どもを連れて家を出ていった妻の行動もどうなんだろうか。
 私は松嶋の事件と無名作家の事件をもう少しリンクさせてもよかったと思う。つまり、善意が悪意を生むという設定ができなかっただろうか。そこに、松嶋の妻が欠点の見つからないような恋人を振ってまで、松嶋と結婚した理由を絡めることはできなかったのだろうか。松嶋の妻が起点となる善意が巡り巡って、松嶋を貶めていくような展開だとさらに良かった気がする。そうでもしないと、彼女が松嶋を選んだ理由がちょっとしたエピソードだけでは納得いかない
 とまあ、偉そうなことを書いてしまったが、妻を一瞬でも疑ってしまった松嶋が、写真見ながら彼女との思いでに浸る場面は、まさに「追憶のかけら」にふさわしい。そして、手記に登場してくる人々が「追憶のかけら」のなかで集めていく様子も素晴らしい。