グッバイ レーニン!


 他の人も同じだと思うが、僕は子どもの頃、「噓つきは泥棒の始まり」と事あるごとに言われた。そして、昔話や童話などでも、正直者が得をして、嘘つきは罰が当たることが定番だった。そうやって、嘘はいけないという人格が形成されていった。しかし、青年期にさしかかると、必ずしも正直者が得をするわけではなく、嘘つきが得をする場面を目にするようになった。そして、ご多分に漏れず、真実と嘘を使い分けながら成長していった。だが、それは処世術の一つとして身に着けたものであり、嘘がいいことなんて思ったことはなかった。だが、大人になると、嘘にはもう一つ種類があることを知った。それはほかの誰かのためにつく「優しい噓」である。そして、その嘘は本当に優しいのか常に悩むようになった。 

 この映画を見ていて、そんな「優しい嘘」について久しぶりに考えてしまった。この作品は東西ドイツの統合を舞台にした、「優しい嘘」をつきあった家族の愛の物語である。ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツが統合された激動の瞬間に、8か月も昏睡状態だった東ドイツ愛国者である母親は、浦島太郎状態で目覚める。ショックで心臓発作を起こさないようにと、息子のアレックスはあらゆる手段を使って、東ドイツが存在しているかのように思わせる。古着屋から東ドイツ製のダサい服を買ってきて着たり、瓶詰の食品を昔の瓶に詰め替えたり、テレビでは昔のニュースの録画を流したりする。それ端から見ていると滑稽ではあるが、母親にショックを与えまいとするアレックスの優しさが溢れている。 

 しかし、その嘘は本当に母親のためだったのだろうか?確かに、はじめは母親のためだったのは間違いない。だが、作中では何度か真実を告げるチャンスはあったが、アレックスは頑なに嘘をつきとおそうとした。それは、急激な変化に対応できずにいる自分自身に対して嘘をつきたかったのかもしれない。 

 あの時代、共産主義が失敗の烙印を押され、資本主義に駆逐されていく様子をリアルタイムで見ていた。資本主義でしかもバブル期の最中にいた僕は、時代遅れの服を着て、トラバントのようなおんぼろ車に乗っていた人々が、西側の文化に触れてみんな幸せになると能天気に思っていた。しかし、いつの時代にも流行に乗れず、過去を懐かしむ人々がいる。アレックスもその一人だったと思う。幸せとはいえないまでも、元気だった母親と一緒にいた時代に戻りたかったのかもしれない。 

 映画の終盤には、アレックスの彼女ララから母親は真実を聞いている。しかし、彼女は息子の作ったフェイクニュースを黙ってみていた。彼女もまた騙されたふりをという「優しい噓」を息子に対してついていたのだ。 

 僕は、真実を伝えることが常に正しいとは思っていない。でも、「優しい噓」がいつも優しいとは思っていない。良かれと思ってついた「優しい噓」が返って相手を深く傷つけてしまうことも知っている。また、「優しい噓」が時として、自分の身を守るための言い訳であることも知っている。 

 それでも、「優しい噓」をつき続けるアレックスと気づかないふりをしている母親を見ていると、どんな嘘であろうとも、家族の愛が優しく包んでくれると思わずにはいられない。