ドライブマイカー ネタばれ

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 僕は大学生の頃に「風の歌を聴け」を読んでから、村上春樹の作品
をずっと読み続けている。小説の中の「僕」の欠失感を自分と重ね合わせたり、登場人物たちのしゃれた会話に感心したり、彼の軽妙なレトリックにうならされたりしていた。しかし、一番の魅力は彼の小説には余白がたくさんあることだ。悪く言えば、起承転で終わっていて結がない。だから、読者がどうとでも解釈できる。作品の主題やメッセージを受け取りたい人々にとっては、彼の作品は「何を言っているかわからない、性描写のやたら多い作品」として拒絶されてしまう。彼の作品が好きな人々は、小説の余白に自分の物語を付け加えることで作品を完成させている。しかし、残念なことに、他の人の付け加えた作品を見ることはほとんどできない。その物語をどう咀嚼して、解釈したのか知る術はなかなかない。(他の人のブログを見、読書会でも参加しなければ無理な話だ)。ところが、一つ良い方法がある、それが映画化だ。一流の人々が村上ワールドをどう料理したのかがよくわかる。
 さて、だいぶ前置きが長くなってしまったが、映画「ドライブマイカー」について考えていきたい。本作は「女のいない男たち」の中の短編「ドライブマイカー」をベースにしている。村上作品の映画化というと古くは「ノルウェイの森」があったが、ただ原作をなぞっただけの陳腐な作品となっていた。一方、近年、韓国で映画化された「Burning納屋を焼く」は、独自の解釈を加えて、想像以上の作品に仕上がっていたと思う。やはり、短編を映画にした方がより様々な解釈をそこに加えられるという事もあるのだろう。そういった意味で、僕個人の意見としては、本作は「Burning」まではいかないが、十分楽しめる映画となっていた。
 あらすじ
舞台俳優で演出家の家福悠介は、脚本家の妻・音と幸せに暮らしていた。しかし、家福は妻の不貞を偶然目撃してしまう。そして、しばらくして妻はくも膜下出血で他界する。2年後、喪失感を抱えながら生きていた彼は、演劇祭で演出を担当することになり、愛車のサーブで広島へ向かう。そこで出会った寡黙な専属ドライバーのみさきと過ごす中で、家福はそれまで目を背けていたあることに気づかされていく。(映画.comより)
 個人的にとても残念だったのは、音と高槻の人物造形である。原作でははじめから音はなくなっていて、家福の言葉からしかその人物像がわからない。したがって、どうしてほかの共演者と寝ていたのか、あるいはそれは本当なのかは謎のままである。そして、原作の高槻はとても性格はいい人ではあるが、大したやつではない。だから、憎めないし、あまり性的な魅力に力点が置かれないので音の行動について、ある種の言い訳を作っている。だが、映画では我が子を幼くして失い、「シェエラザード」のようにピロートークして家福に不思議な物語を語る。そして、未成年だろうと、共演者だろうと見境なく女性と寝る高槻との不貞を働く。このような音の人物像を目の当たりにしてしまうと、家福の2年間も長きにわたる喪失感に対して、共感することができない。
 この映画の一番のテーマは、短編「木野」での主人公の台詞「おれは傷つくべきときに十分に傷つかなかった」ことの苦しみと悔いであると思う。妻との関係がうまくいっていると思っていた家福が、偶然にも妻の不貞を目の当たりにしてしまう。しかし、彼は傷つくことを恐れて、何も知らないかのように過ごす。そして、正面から受け止めることもせず妻を避け、妻が「話したいことがある」といったときには、真実を知ることを恐れて家に帰らず、その結果、倒れた妻の発見が遅れ、真実を知ることもなく妻を失ってしまう。それからの彼は、愛車のサーブで妻の吹き込んだテープをきくことで、時の流れを止め、殻に閉じこもってしまう。だから、自らの内面をさらけ出すような舞台での演技もできなくなってしまったのだ。
 映画版で原作から改変して印象に残っているのは、「シェエラザード」の不思議な話に結末を付け加えたところだ。高校時代に好きな男子の家に侵入し、一つ盗んで、一つおいてくる。原作では侵入がばれて、鍵を変えられ侵入できなくなる。だが、映画では本物の空き巣と遭遇し、男を殺して逃げる。ところが、その家には防犯カメラがついただけで、まるで何事もなかったように変わりがない。彼女はそのカメラに向かって、「私が殺した!」と叫ぶ。殺人という重大な罪を犯したのに、まるで何事もなかったように日常が過ぎていく。それはまるで自分が透明人間になったかのようだ。私はここにいる。私が殺した。これは音の深層心理を描いているのではないだろうか。自らの不貞を目撃されたのに(おそらく気がついていたのだろう)、何事もなかったように対応する家福に重なる。そして、カメラに向かって「私が殺した!」という部分だけは家福本人には言えず、高槻にだけ話をしたのではないだろうか。
 そして、西島秀俊三浦透子の演技がいい。西島はもともと台詞が棒読みのように感情の起伏が少ない。その台詞回しは世界から少しだけ距離をおいている家福によく似合っている。同じように、感情を表に出さず、女性が前面に出ていない三浦透子の演技はとてもいい。朝ドラ「カムカムエブリバディ」での一子とは全く別人なので、彼女の演技力は相当なものなのだろう。過去に悔いを残している二人が、少しずつお互いを理解し始め、新たな未知を歩み始める。家福は自分の過去の象徴であった愛車のサーブを彼女に譲る。
 

 これからの二人に待ち構えている未来はどんなものなのだろうか。「ワーニャ伯父さん」のソーニャの台詞が暗示しているのかもしれない。でも、仕方がないわ、生きていかなければ!(間)ね、ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。長いはてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。運命がわたしたちにくだす試みを、辛抱づよく、じっとこらえて行きましょうね。今のうちも、やがて年をとってからも、片時も休まずに、人のために働きましょうね。そして、やがてそのときが来たら、素直に死んでいきましょうね。