Winny ネタバレ

 私がパソコンを手にしたのは1990年代の初頭だった。NECの名機と言われたPC98シリーズを友人から安く譲り受け一太郎やLotas123を使っていた。そして、電話回線を使ってやり取りできるということで、モデムなるものを購入し、友人とパソコン通信をしていた。現在のようにPCを立ち上げると自動的にネットにつながるわけではなかったから、ダイヤルアップといって、接続時に「ピーヒョロロ~」という音を立てながら電話回線につなぎ、そこから伝えたい内容をテキストで送るという感じだった。ホームページを見るといっても、画面が表示されるまでに1分以上かかることもざらで、正直に言ってこんな代物はマニアだけにしか流行らないだろうなあと思っていた。しかし、Windows95が登場し、ADSLというとても速い回線ができ、YahooBB!が、そこらじゅうで無料キャンペーンをしていたりと時代は加速度的に進んでいった。私はそもそもそれほどのヘビーユーザーでもなかったので、そのころには時代からとっくの昔に乗り遅れていた。

 そんな時期に「47氏こと金子勇氏がPC間で直接データをやり取りすることができるファイル共有ソフト「Winny」を開発した。当時を思い出すと、アダルトコンテンツの個人間のやりとりの中で、ウイルスが仕込まれて、情報が流出したといったニュースが結構流れていた。私も単純にWinnyは怖いソフトだと思って手を出さなかった。だから、開発者の金子さんが逮捕されたというニュースを聞いた時にはそれほどの驚きはなかった。単純に恐ろしいソフトを作成した人が逮捕されたという印象に過ぎなかった。
 だが、この映画の中で北尻法律相談事務所の壇俊光弁護士は「ナイフで人を殺した事件があってナイフの製造者が罪を問われるわけがない」と語っている。そこで初めて、あの時の捜査や逮捕が無理筋であったことに気づいた。著作権侵害幇助という逮捕名義も、著作権侵害が民事であり、著作権保有者が原告になるべきなのに検察が原告になっているという不自然さも全く分からなかった。私を含めて多くの国民はマスコミや警察の印象操作にまんまと乗っていたわけだ。
 映画では同時期に京都府警の情報がWinnyを通じたウイルス感染で流出したというニュースも流れる。警察内のPCでWinnyを使った署員がいたことや不適切な情報が流出してしまったという不祥事を隠蔽し、警察もWinnyの被害者であるといった印象を持たせるために、金子さんを逮捕したというストーリーをほのめかしている。しかし、より重要なのは、同時に愛媛県警内部で行われていた裏金作りで、愛媛県警の裏金を実名で公表した仙波氏登場だろう。
映画の中で、Winnyを作った目的は違法ダウンロードやアップロードではなく、匿名のまま著作物を広く公開出来ることであったといっている。仙波さんは公表後身の危険を感じているが、Winnyを使って公表していればそういったこともなかったはずだ。もし、金子さんが脆弱性を補完するようなプログラムをつけくわえていれば、ウィキリークスの先を行くシステムが構築されたかもしれない。2009年に最高裁で無罪判決が出るまで、金子さんはプログラムを自由にすることはできなかったという。天才プログラマーの貴重な時間が失われてしまったのは残念で仕方がない。
 
 日本では、100パーセントの安心安全が担保されないと、物事が進まなくなってしまったのはいつからだろうか。小池都知事築地市場豊洲への移転に際して、「安心安全」と声高に叫び、安全性が確認できても「安心と安全は違う」などと訳の分からないロジックを言い出し、主観的な感想である「安心」がフォーカスされてしまった。しかし、その流れはそれよりずっと前にすでに始まっており、バブル終焉後の日本に少しずつ蔓延していった気がする。
 そして、最近ではそれが行き着くところまできている。例えば、福岡第一原発の処理水にしても、科学的な安全性が担保されているにもかかわらず批判が絶えないのは、「安心」できないからだ。さらに言うと、原発そのものも旧型と新型の区別もわからないまま、「危険だから稼働させない」という声が大きい。マスク着用についても、科学的な根拠があまり明示されないなかで(一説には密着させた状態で着用すれば20%ほど感染リスクを抑えられるようだ)マスクを外す、外さないといった議論がずっと続いている。だが、偉そうなことを言っている自分自身も「安心か?」と尋ねられたら不安を隠しきれない。結局誰かがファーストペンギンとして先頭を切って歩いている後ろについていく程度のことしかできない。
 もし仮に、現代社会に初期型の自動車が登場したとしたら、おそらく日本では利用できないだろう。シートベルトもなく、エアバッグも自動ブレーキもない自動車は走る凶器である。きっと「人命が危険にさらされる!」という理由で自動車会社は訴えられるだろう。だが、科学は先人たちの無数の犠牲の上に進歩してきたのだ。自動車はフォードが大量生産を始めてから100年以上の時間をかけて、少しずつ安全性を高めてきたのだ。決して一足飛びにすべての人が「安心」を感じるような製品になったわけではない。
 おそらく我々日本人は犠牲を冒してまで進歩することを望んではいないのだろう。ある程度現状に満足した状態で、リスクを取ってまで何かにチャレンジするメリットがないのだ。そうやって、日本は「失われた30年」を過ごし、これからも同じように過ごしていくのだろう。
 Winnyを含めて、ネット上の様々な技術革新にチャレンジしていれば、ITの覇権をアメリカだけに握られることはなかったかもしれない。ドローンの技術を進歩させていれば、ドローン輸出大国の座を中国にとられなかったかもしれない。3Dプリンターを実用化までこぎつけていれば・・・。歴史にIfは禁句だが、そう思わずにはいられない。
 
 どんなに有益で素晴らしいアイデアであろうと、使い手によって悪魔の道具になってしまうこともある。しかし、人類は少しずつ悪魔の手からその道具を取り戻してきた。悪魔が使うかもしれないからといって、イデアを抹殺することは罪だ。我々はそうならないような知恵と勇気を持っていると信じたい。

グッバイ レーニン!


 他の人も同じだと思うが、僕は子どもの頃、「噓つきは泥棒の始まり」と事あるごとに言われた。そして、昔話や童話などでも、正直者が得をして、嘘つきは罰が当たることが定番だった。そうやって、嘘はいけないという人格が形成されていった。しかし、青年期にさしかかると、必ずしも正直者が得をするわけではなく、嘘つきが得をする場面を目にするようになった。そして、ご多分に漏れず、真実と嘘を使い分けながら成長していった。だが、それは処世術の一つとして身に着けたものであり、嘘がいいことなんて思ったことはなかった。だが、大人になると、嘘にはもう一つ種類があることを知った。それはほかの誰かのためにつく「優しい噓」である。そして、その嘘は本当に優しいのか常に悩むようになった。 

 この映画を見ていて、そんな「優しい嘘」について久しぶりに考えてしまった。この作品は東西ドイツの統合を舞台にした、「優しい嘘」をつきあった家族の愛の物語である。ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツが統合された激動の瞬間に、8か月も昏睡状態だった東ドイツ愛国者である母親は、浦島太郎状態で目覚める。ショックで心臓発作を起こさないようにと、息子のアレックスはあらゆる手段を使って、東ドイツが存在しているかのように思わせる。古着屋から東ドイツ製のダサい服を買ってきて着たり、瓶詰の食品を昔の瓶に詰め替えたり、テレビでは昔のニュースの録画を流したりする。それ端から見ていると滑稽ではあるが、母親にショックを与えまいとするアレックスの優しさが溢れている。 

 しかし、その嘘は本当に母親のためだったのだろうか?確かに、はじめは母親のためだったのは間違いない。だが、作中では何度か真実を告げるチャンスはあったが、アレックスは頑なに嘘をつきとおそうとした。それは、急激な変化に対応できずにいる自分自身に対して嘘をつきたかったのかもしれない。 

 あの時代、共産主義が失敗の烙印を押され、資本主義に駆逐されていく様子をリアルタイムで見ていた。資本主義でしかもバブル期の最中にいた僕は、時代遅れの服を着て、トラバントのようなおんぼろ車に乗っていた人々が、西側の文化に触れてみんな幸せになると能天気に思っていた。しかし、いつの時代にも流行に乗れず、過去を懐かしむ人々がいる。アレックスもその一人だったと思う。幸せとはいえないまでも、元気だった母親と一緒にいた時代に戻りたかったのかもしれない。 

 映画の終盤には、アレックスの彼女ララから母親は真実を聞いている。しかし、彼女は息子の作ったフェイクニュースを黙ってみていた。彼女もまた騙されたふりをという「優しい噓」を息子に対してついていたのだ。 

 僕は、真実を伝えることが常に正しいとは思っていない。でも、「優しい噓」がいつも優しいとは思っていない。良かれと思ってついた「優しい噓」が返って相手を深く傷つけてしまうことも知っている。また、「優しい噓」が時として、自分の身を守るための言い訳であることも知っている。 

 それでも、「優しい噓」をつき続けるアレックスと気づかないふりをしている母親を見ていると、どんな嘘であろうとも、家族の愛が優しく包んでくれると思わずにはいられない。 

予告犯 ネタバレ

 

 ある日、動画サイトに新聞紙製の頭巾で顔を隠した謎の男が現われ、集団食中毒を起こした挙句に開き直った食品加工会社に火を放つと予告する。警視庁サイバー犯罪対策課のキャリア捜査官・吉野絵里香は、その謎に包まれた予告犯「シンブンシ」の捜査を開始。シンブンシが単独犯ではなく複数犯であることを見抜く。やがて予告通り、食品加工会社の工場が放火される事件が発生。その後もシンブンシは、警察や法律で罰することのできない犯罪者たちへの制裁を次々と予告しては実行に移す。ついには政治家の殺人予告にまで至り、シンブンシの存在は社会現象を巻きおこしていく。(映画.com)

 

 映画の前半は社会的弱者が、ネットを用いて社会の不正義を正していく。女性刑事と公安によって少しずつ犯人の素性が分かってくる流れから、観客は完全にサスペンスものだと勘違いしてしまう。しかし、この映画のテーマはそこにはない。映画の中盤でシンブンシのフリをして彼らを救うネットカフェの店員のセリフに凝縮されている。

 

 どんなに小さなことでも人は動くんだ。
 それが誰かのためになるのなら。

 

 社会の底辺に転げ落ち、日雇い労働者として山奥の産廃処分場で働いていたシンブンシ達には、ささやかな夢があった。メタボには「廻っていない寿司が食いたい」、ノビタには「彼女がほしい」、カンサイには「大きなことがしたい」、主人公ゲイツには「友達がほしい」、そしてフィリピンからきたネルソンには「父親に会いたい」

 ゲイツはシンブンシとして活動するなかで友達が出来、予告犯を演じることで社会に大きな影響を与えることが出来、待ち合わせに使った中華料理店で好意を抱く女性に出会い、メタボの誕生日には、みんなでパックのお寿司を食べた。では、産廃処分場で死んだネルソンの願いは?まさにそれこそがこの映画の中心だった。

 6件目で自殺を予告したとき、僕はシンブンシ達の動機が全く分からなかった。単に社会を騒がす愉快犯なら、自殺するわけはないし。社会の不正を懲らしめるのなら、もっと続けてもいいし、ネットでもっと煽ることも出来る。この中途半端さに、駄作の烙印を押そうと思ったが、まんまと裏切られた。それも、想像以上に。

 シンブンシ達の本当の目的は、ネルソンの願いを叶えるためだったのだ。あえて犯行にネルソンの名前を出して、公安に父親を探させたわけだ。そう、それだけのために彼らは命をかけたのだ。

 この映画はサスペンス映画ではない、社会の底辺で生きていた若者達の青春映画である。一度つまずいたら二度と立ち上がることが許されない社会で、頑張ることすら許されなかった若者達が、ささやかな他人の願いを叶えようとした物語である。ゲイツ自身も他人の願いを叶えようとする中で、自らの願いが叶えられた。

 しかし、すべての罪を被って死んだゲイツと、残された3人のどちらが幸せだったのだろうか。彼らのこれからの人生はどうなっていくのだろうか。映画は人の人生のハイライトしか見せてはくれない。だが、人生は続いていく。この社会でこれからずっと生き抜くほうが何倍もつらいかもしれない。 

シンウルトラマン ネタばれ

 「人類はウルトラマンが自分の命を賭すほどの存在なのだろうか?」

映画を見て真っ先に考えたことがそれだった。

 

 昭和の頃、私も他の多くの少年達と同じように、ウルトラマンシリーズを欠かさず見ていた。そして、ニセウルトラマンの登場の時には、ブラウン管に向かって「偽物だよ!違うよ!」と叫び、セブンが磔にされたときには、次週までそのことで頭がいっぱいだった。また、仮面ライダーシリーズも同じように夢中で見ていた。その頃はただただヒーローに憧れ、怪獣や怪人を憎んでいただけだった。

 しかし、大人になってから改めてウルトラマンについて考えてみると、そんなに無邪気に考えることが出来ない。仮面ライダーはそもそも改造人間なので人類側ではあるが(そうはいっても、からだを張って世界平和に尽くすことは次元が違うが・・・)ウルトラマンは光の国から来た、人類とは縁もゆかりもない存在なのだ。そんな彼が、自分を犠牲にしてまで人類を救おうとしているのだ。そんな価値が我々に本当にあるのだろうか?

 映画では、ウルトラマンが登場してから大きく3つの話が展開される。上映時間が2時間なので詰め込みすぎで、総集編のような印象を受けてしまうのが残念である。一つ一つの話を丁寧に掘り下げていけば、映画3本分くらいにはなってしまうだろう。しかし、興行的にはこれが正解と言えよう。よほどのマニアでない限り、ウルトラマン3部作を映画館で見ようとはしないからだ。

 第一部ではザラブ星人が登場する。彼は禍特対本部に侵入し、停電とともに大規模な電子機器システム障害を発生させ、電子データを自由に操る高度な科学力を見せつけて、日本との友好条約(不平等条約)を迫る。しかし、条約締結を契機に国家同士を争わせて人類を殲滅させるという陰謀があった。

 第二部ではメフィラス星人が登場する。生体を巨大化させる原理の仕組みであるベーターボックスを使い、浅見弘子(長澤まさみ)を巨大化させる。そして、ベータシステムを使って、「人類の巨大化による外星人からの自衛計画」を提案する。しかし、彼の本当の目的は、人類がベーターシステムによって巨大化し兵器に転用できる有効資源だと知り、地球を他の生命体に荒らされる前に独占管理することだった。そして、人類は知恵でも暴力でも、無条件に外星人に従うしかないことを分からせるために、禍威獣を登場させ、ウルトラマンを誘い出したのだった。

 第三部ではゾフィーが登場する。人類が巨大化して兵器に転用できることを図らずも明らかにしてしまったウルトラマンを光の国へ召喚し、危険因子となってしまった人類を消滅させるために最終兵器ゼットンを使用する。

 映画では、この話のそこかしこに人間の愚かさを描いている。禍特対が見事な官僚組織に組み込まれていて自由な活動ができない様子、ザラブ星人との条約締結に向けての国内の政治権力闘争、ベータシステムをいち早く手に入れることで世界におけるプレゼンスを高めることに必死な政治家。庵野さんの政治への不信感や嫌悪感が如実に表れているが、現実もそれほどかけ離れたものではないだろう。一方で、この映画では人間の良さがほとんど描かれていない。あえて言うならば、冒頭で斎藤工が少年を身を挺して救ったところだけだ。

 ウルトラマンが地球に留まることを決意したときにゾフィーに、「人類はまだ幼い。その成長を見守っていきたい」と語っている。しかし、僕たちは成長しているのだろうか?相変わらず国土を拡大しようと戦争を仕掛けている国、まるで、ウルトラマンが来てくれると信じているかのように自国の自衛手段を考えない国。そんな国々のなかで、ただただ自分のことしか考えていない人々。

 「ウルトラマン、僕たちはあなたが期待するように成長していますか?」

 

ドライブマイカー ネタばれ

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 僕は大学生の頃に「風の歌を聴け」を読んでから、村上春樹の作品
をずっと読み続けている。小説の中の「僕」の欠失感を自分と重ね合わせたり、登場人物たちのしゃれた会話に感心したり、彼の軽妙なレトリックにうならされたりしていた。しかし、一番の魅力は彼の小説には余白がたくさんあることだ。悪く言えば、起承転で終わっていて結がない。だから、読者がどうとでも解釈できる。作品の主題やメッセージを受け取りたい人々にとっては、彼の作品は「何を言っているかわからない、性描写のやたら多い作品」として拒絶されてしまう。彼の作品が好きな人々は、小説の余白に自分の物語を付け加えることで作品を完成させている。しかし、残念なことに、他の人の付け加えた作品を見ることはほとんどできない。その物語をどう咀嚼して、解釈したのか知る術はなかなかない。(他の人のブログを見、読書会でも参加しなければ無理な話だ)。ところが、一つ良い方法がある、それが映画化だ。一流の人々が村上ワールドをどう料理したのかがよくわかる。
 さて、だいぶ前置きが長くなってしまったが、映画「ドライブマイカー」について考えていきたい。本作は「女のいない男たち」の中の短編「ドライブマイカー」をベースにしている。村上作品の映画化というと古くは「ノルウェイの森」があったが、ただ原作をなぞっただけの陳腐な作品となっていた。一方、近年、韓国で映画化された「Burning納屋を焼く」は、独自の解釈を加えて、想像以上の作品に仕上がっていたと思う。やはり、短編を映画にした方がより様々な解釈をそこに加えられるという事もあるのだろう。そういった意味で、僕個人の意見としては、本作は「Burning」まではいかないが、十分楽しめる映画となっていた。
 あらすじ
舞台俳優で演出家の家福悠介は、脚本家の妻・音と幸せに暮らしていた。しかし、家福は妻の不貞を偶然目撃してしまう。そして、しばらくして妻はくも膜下出血で他界する。2年後、喪失感を抱えながら生きていた彼は、演劇祭で演出を担当することになり、愛車のサーブで広島へ向かう。そこで出会った寡黙な専属ドライバーのみさきと過ごす中で、家福はそれまで目を背けていたあることに気づかされていく。(映画.comより)
 個人的にとても残念だったのは、音と高槻の人物造形である。原作でははじめから音はなくなっていて、家福の言葉からしかその人物像がわからない。したがって、どうしてほかの共演者と寝ていたのか、あるいはそれは本当なのかは謎のままである。そして、原作の高槻はとても性格はいい人ではあるが、大したやつではない。だから、憎めないし、あまり性的な魅力に力点が置かれないので音の行動について、ある種の言い訳を作っている。だが、映画では我が子を幼くして失い、「シェエラザード」のようにピロートークして家福に不思議な物語を語る。そして、未成年だろうと、共演者だろうと見境なく女性と寝る高槻との不貞を働く。このような音の人物像を目の当たりにしてしまうと、家福の2年間も長きにわたる喪失感に対して、共感することができない。
 この映画の一番のテーマは、短編「木野」での主人公の台詞「おれは傷つくべきときに十分に傷つかなかった」ことの苦しみと悔いであると思う。妻との関係がうまくいっていると思っていた家福が、偶然にも妻の不貞を目の当たりにしてしまう。しかし、彼は傷つくことを恐れて、何も知らないかのように過ごす。そして、正面から受け止めることもせず妻を避け、妻が「話したいことがある」といったときには、真実を知ることを恐れて家に帰らず、その結果、倒れた妻の発見が遅れ、真実を知ることもなく妻を失ってしまう。それからの彼は、愛車のサーブで妻の吹き込んだテープをきくことで、時の流れを止め、殻に閉じこもってしまう。だから、自らの内面をさらけ出すような舞台での演技もできなくなってしまったのだ。
 映画版で原作から改変して印象に残っているのは、「シェエラザード」の不思議な話に結末を付け加えたところだ。高校時代に好きな男子の家に侵入し、一つ盗んで、一つおいてくる。原作では侵入がばれて、鍵を変えられ侵入できなくなる。だが、映画では本物の空き巣と遭遇し、男を殺して逃げる。ところが、その家には防犯カメラがついただけで、まるで何事もなかったように変わりがない。彼女はそのカメラに向かって、「私が殺した!」と叫ぶ。殺人という重大な罪を犯したのに、まるで何事もなかったように日常が過ぎていく。それはまるで自分が透明人間になったかのようだ。私はここにいる。私が殺した。これは音の深層心理を描いているのではないだろうか。自らの不貞を目撃されたのに(おそらく気がついていたのだろう)、何事もなかったように対応する家福に重なる。そして、カメラに向かって「私が殺した!」という部分だけは家福本人には言えず、高槻にだけ話をしたのではないだろうか。
 そして、西島秀俊三浦透子の演技がいい。西島はもともと台詞が棒読みのように感情の起伏が少ない。その台詞回しは世界から少しだけ距離をおいている家福によく似合っている。同じように、感情を表に出さず、女性が前面に出ていない三浦透子の演技はとてもいい。朝ドラ「カムカムエブリバディ」での一子とは全く別人なので、彼女の演技力は相当なものなのだろう。過去に悔いを残している二人が、少しずつお互いを理解し始め、新たな未知を歩み始める。家福は自分の過去の象徴であった愛車のサーブを彼女に譲る。
 

 これからの二人に待ち構えている未来はどんなものなのだろうか。「ワーニャ伯父さん」のソーニャの台詞が暗示しているのかもしれない。でも、仕方がないわ、生きていかなければ!(間)ね、ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。長いはてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。運命がわたしたちにくだす試みを、辛抱づよく、じっとこらえて行きましょうね。今のうちも、やがて年をとってからも、片時も休まずに、人のために働きましょうね。そして、やがてそのときが来たら、素直に死んでいきましょうね。

ポリコレの正体 福田ますみ

 著者の福田ますみさんの名前は知らなかったが、福岡の「殺人教師」事件や「長野・丸子実業高校」の報道が、実際はモンスターペアレントの言い分をうのみにしたでっちあげだったことを調べ上げた記事を読んだことがあった。最近のマスメディアが事件の表層だけを過激に報道し、その報道の影響(二次被害)について全く配慮を欠いていることに怒りすら覚えているので、丹念に事件の背後を調べ上げるルポルタージュはとても印象に残っていた。
 さて、本書であるが、近年、ポリコレが行き過ぎているなあと常々感じているので、とても興味深く読んだ。ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ=ポリコレ)という正義の名のもとに、アメリカ社会を蝕んでおり、非キリスト教徒に配慮するという大義名分のもと、すでに「メリークリスマス」という言葉は奪われ、性差別への配慮として、「お父さん」「お母さん」も公式の場では使えなくなっていることには驚いた。日本でも、学校では「あだ名」をつける事さえ、一律に禁止されようとしており、「お母さん食堂」へのいちゃもんなどに代表される動きが、今後さらにエスカレートしそうである。
 はじめに、森喜朗元総理大臣の「女性がいる会議は時間がかかる」という発言で、東京オリパラ組織委員長を引きずり下ろされた事件をあげている。昨今のマスコミの傾向だが、記事がとにかく短い。ネットニュースでも長文は嫌われるので、要点だけで、しかもインパクトのある記事に意図的にしている。そうすると結局炎上しそうな部分を切り取って焚きつけることになる。森さんの話も40分の話の中で、前後の文脈も考えずにこの部分を切り取ると確かに炎上する。しかし、全体の概要をネットで見つけて読んでみると全く違った印象をもつ。そうでなくても、これだけを持って「女性蔑視だ!」「辞任しろ!」とはやり過ぎだと思う。同様に、開催式の演出担当小林賢太郎のホロコースト発言も、もう少し状況や背景を深掘りしていくと見えてくるものが変わったと思う。当事者でもなく、ユダヤ人の心情を理解しているわけでもない人々が正義を振りかざして引きずり下ろしたようにみえる。
 次にBLM問題について書かれている。ジョージ・フロイド氏が警官に取り押さえられて死亡した事件に端を発したが、もうこの流れは止めることが出来ないようだ。彼の死に関しては不幸な出来事ではあるが、その後に富の再配分を叫び略奪行為をしたBLM暴動や、28億にも上る賠償金、警察組織の解体運動など、BLM運動が社会に有益だとは思えない事象が多々ある。こういった状況を見ていると、なんとなく韓国の反日行動と共通しているきがする。BLMの背景には「制度的人種差別」や「批判的人種理論」といった不思議な考えが存在する。これはアメリカの法律を含んだ社会システム全体には、白人支配を維持する機能が存在し、黒人は常に虐げられているという考えである。これでは、白人は生まれながらに“原罪”を背負っていると言うことになる。彼らに謝罪しようが、法律を変えようが彼らの強烈な被害者意識は変わらず、白人への憎悪が続いていく。これは韓国が自分たちを占領下においた日本は“原罪”を背負っているのだから、何をやってもいいし、何千年経とうが許しはしないというスタンスに似ている。そして、表だって批判できないことも似ている。
 次に、LGBTの問題を取り扱っている。正直にいって、昨今のLGBTへの理解や配慮に関して、それほど疑問に思ったことがなかったが、本書を読んでその考えを改めた。杉田水脈論文に関わって、新潮45が廃刊に追い込まれたことは、あいかわらず過激なポリコレによる魔女狩りだが、私が気になった点は別のところだ。杉田論文を擁護する形で発表された小川栄太郎さんが、LGBTの人たちの生きづらさを配慮するなら、満員電車で手が自動的に動いてしまう痴漢も配慮すべきだろうという少し極端な比喩である。
 現在、LGBT運動は、その範疇に収まらないマイノリティにまで広がっている、ノンバイナリー、Xジェンダークィア、クエスョニングなど数多くありすぎるので、LGBTQ+などと表記されることもある。もはや、マイノリティにとって性的な対象は単に同性だけでなくなっている。そうなると、性的な衝動がお尻だけ、匂いだけ、幼児だけ、電車内の女性だけ、あるいは2次元の女性だけという場合も十分あり合える。その場合に生身の同性だけを性的な対象としている場合には、「性的指向」という定義を用い、それ以外は「性的嗜好」だという区別が果たして成り立つのか疑問を覚えた。そこに、明確に区別がつくものなのだろうか?私は当事者でないので答えは分からないが、小川氏の問題提起は興味深かった。
 一方で、性自認にかかわるトランスジェンダーの問題も一筋縄ではいかないようだ。こちらは性同一性障害という脳の機能障害(適切な表現が思い浮かばない)なので、しっかりと対応してあげればいいと思っていた。しかし、物事はそれほど単純ではないようで、思春期の一時の性の揺らぎによって性別違和を覚えることも多く、そ性自認にはゆらぎがあるそうだ。安易に性別適合手術を受けて後悔した例も多いという。また、性別適合手術を受けていない場合には、トランスジェンダーになりすました人を見分けることが出来ず、性被害や、不快な思いをさせることもあるという。
 「男女平等」「人種差別反対」「LGBTへの配慮」それだけ聞けば、誰も正面切って批判することはない。しかし、深掘りしていくと様々な問題があることが分かった。本書ではいくつかのデータをあげているが、女性社会進出ランキングで底辺をさまよっている日本において、男性より女性の方が幸福度が高いというデータ。LGBTへの配慮が足りないといわれる日本では、そもそもカトリックの影響がないので、欧米のようなLBGに対する忌避感が少なかったというデータなどがある。データは評価対象や項目によって結果が大きく変わってしまうので、鵜呑みにすることは出来ないが、少なくともそういったデータがあることも知った上で、一方的な考えを排除する必要があると感じた。

新型コロナ「正しく恐れる」レジュメ

新型コロナ「正しく恐れる」問題の本質は何か  西村秀一

 

本当の専門家?が書いた本であり、説得力がある。

 

○リスクコミュニケーションの失敗
  政府、マスコミ、自称“専門家”が国民に対して過度にならない、適切なリスクを発信し、共有することに失敗している。そして、誤解を招くような情報がどういった反応を引き起こすかに対してあまりに無責任である。

原因
 情報の隠蔽といわれることを恐れて、情報を吟味せず垂れ流している。
 視聴率を上げるために、インパクトの強い情報のみを垂れ流している。
 とりあえず、最悪のことを言っておけば、判断が間違ったときにも批判が少ない。 
 ⇒その結果、国民は過剰な反応、ヒステリックな反応をする。
  小さな安心を優先して、大きな安全を犠牲にしてしまう。


 変異株について騒ぎすぎ!  

     変異株を分類したところで意味はない。対策は同じ
 毎日の感染者数に騒ぎすぎ! 

     一週間ごとの平均で全体の様子を見るべき、日の変動などを見ても

     そもそも1,2週間前の感染状況なので意味はない。

○インフルエンザとの違い
現時点では新型コロナはインフルより怖い。
⇒子どもにはほとんど風邪と同じレベルであるが、血栓ができるので、中高年は危険
インフルエンザワクチンより副反応が強いのはあたりまえ。
 ⇒未知のウイルスに対応するために、ワクチンの効果を強くしてい

○本来、専門家は、「~をしてはダメ」と同様に「~はしても大丈夫」と言うべき。
 本当の意味の専門家がいないことが原因。

 

こういった声が少しでも届けばいいのに。