Winny ネタバレ
私がパソコンを手にしたのは1990年代の初頭だった。
グッバイ レーニン!
他の人も同じだと思うが、僕は子どもの頃、「噓つきは泥棒の始まり」と事あるごとに言われた。そして、昔話や童話などでも、正直者が得をして、嘘つきは罰が当たることが定番だった。そうやって、嘘はいけないという人格が形成されていった。しかし、青年期にさしかかると、必ずしも正直者が得をするわけではなく、嘘つきが得をする場面を目にするようになった。そして、ご多分に漏れず、真実と嘘を使い分けながら成長していった。だが、それは処世術の一つとして身に着けたものであり、嘘がいいことなんて思ったことはなかった。だが、大人になると、嘘にはもう一つ種類があることを知った。それはほかの誰かのためにつく「優しい噓」である。そして、その嘘は本当に優しいのか常に悩むようになった。
この映画を見ていて、そんな「優しい嘘」について久しぶりに考えてしまった。この作品は東西ドイツの統合を舞台にした、「優しい嘘」をつきあった家族の愛の物語である。ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツが統合された激動の瞬間に、8か月も昏睡状態だった東ドイツの愛国者である母親は、浦島太郎状態で目覚める。ショックで心臓発作を起こさないようにと、息子のアレックスはあらゆる手段を使って、東ドイツが存在しているかのように思わせる。古着屋から東ドイツ製のダサい服を買ってきて着たり、瓶詰の食品を昔の瓶に詰め替えたり、テレビでは昔のニュースの録画を流したりする。それ端から見ていると滑稽ではあるが、母親にショックを与えまいとするアレックスの優しさが溢れている。
しかし、その嘘は本当に母親のためだったのだろうか?確かに、はじめは母親のためだったのは間違いない。だが、作中では何度か真実を告げるチャンスはあったが、アレックスは頑なに嘘をつきとおそうとした。それは、急激な変化に対応できずにいる自分自身に対して嘘をつきたかったのかもしれない。
あの時代、共産主義が失敗の烙印を押され、資本主義に駆逐されていく様子をリアルタイムで見ていた。資本主義でしかもバブル期の最中にいた僕は、時代遅れの服を着て、トラバントのようなおんぼろ車に乗っていた人々が、西側の文化に触れてみんな幸せになると能天気に思っていた。しかし、いつの時代にも流行に乗れず、過去を懐かしむ人々がいる。アレックスもその一人だったと思う。幸せとはいえないまでも、元気だった母親と一緒にいた時代に戻りたかったのかもしれない。
映画の終盤には、アレックスの彼女ララから母親は真実を聞いている。しかし、彼女は息子の作ったフェイクニュースを黙ってみていた。彼女もまた騙されたふりをという「優しい噓」を息子に対してついていたのだ。
僕は、真実を伝えることが常に正しいとは思っていない。でも、「優しい噓」がいつも優しいとは思っていない。良かれと思ってついた「優しい噓」が返って相手を深く傷つけてしまうことも知っている。また、「優しい噓」が時として、自分の身を守るための言い訳であることも知っている。
それでも、「優しい噓」をつき続けるアレックスと気づかないふりをしている母親を見ていると、どんな嘘であろうとも、家族の愛が優しく包んでくれると思わずにはいられない。
予告犯 ネタバレ
ある日、動画サイトに新聞紙製の頭巾で顔を隠した謎の男が現われ、集団食中毒を起こした挙句に開き直った食品加工会社に火を放つと予告する。警視庁サイバー犯罪対策課のキャリア捜査官・吉野絵里香は、その謎に包まれた予告犯「シンブンシ」の捜査を開始。シンブンシが単独犯ではなく複数犯であることを見抜く。やがて予告通り、食品加工会社の工場が放火される事件が発生。その後もシンブンシは、警察や法律で罰することのできない犯罪者たちへの制裁を次々と予告しては実行に移す。ついには政治家の殺人予告にまで至り、シンブンシの存在は社会現象を巻きおこしていく。(映画.com)
映画の前半は社会的弱者が、ネットを用いて社会の不正義を正していく。女性刑事と公安によって少しずつ犯人の素性が分かってくる流れから、観客は完全にサスペンスものだと勘違いしてしまう。しかし、この映画のテーマはそこにはない。映画の中盤でシンブンシのフリをして彼らを救うネットカフェの店員のセリフに凝縮されている。
どんなに小さなことでも人は動くんだ。
それが誰かのためになるのなら。
社会の底辺に転げ落ち、日雇い労働者として山奥の産廃処分場で働いていたシンブンシ達には、ささやかな夢があった。メタボには「廻っていない寿司が食いたい」、ノビタには「彼女がほしい」、カンサイには「大きなことがしたい」、主人公ゲイツには「友達がほしい」、そしてフィリピンからきたネルソンには「父親に会いたい」
ゲイツはシンブンシとして活動するなかで友達が出来、予告犯を演じることで社会に大きな影響を与えることが出来、待ち合わせに使った中華料理店で好意を抱く女性に出会い、メタボの誕生日には、みんなでパックのお寿司を食べた。では、産廃処分場で死んだネルソンの願いは?まさにそれこそがこの映画の中心だった。
6件目で自殺を予告したとき、僕はシンブンシ達の動機が全く分からなかった。単に社会を騒がす愉快犯なら、自殺するわけはないし。社会の不正を懲らしめるのなら、もっと続けてもいいし、ネットでもっと煽ることも出来る。この中途半端さに、駄作の烙印を押そうと思ったが、まんまと裏切られた。それも、想像以上に。
シンブンシ達の本当の目的は、ネルソンの願いを叶えるためだったのだ。あえて犯行にネルソンの名前を出して、公安に父親を探させたわけだ。そう、それだけのために彼らは命をかけたのだ。
この映画はサスペンス映画ではない、社会の底辺で生きていた若者達の青春映画である。一度つまずいたら二度と立ち上がることが許されない社会で、頑張ることすら許されなかった若者達が、ささやかな他人の願いを叶えようとした物語である。ゲイツ自身も他人の願いを叶えようとする中で、自らの願いが叶えられた。
しかし、すべての罪を被って死んだゲイツと、残された3人のどちらが幸せだったのだろうか。彼らのこれからの人生はどうなっていくのだろうか。映画は人の人生のハイライトしか見せてはくれない。だが、人生は続いていく。この社会でこれからずっと生き抜くほうが何倍もつらいかもしれない。
シンウルトラマン ネタばれ
「人類はウルトラマンが自分の命を賭すほどの存在なのだろうか?」
映画を見て真っ先に考えたことがそれだった。
昭和の頃、私も他の多くの少年達と同じように、ウルトラマンシリーズを欠かさず見ていた。そして、ニセウルトラマンの登場の時には、ブラウン管に向かって「偽物だよ!違うよ!」と叫び、セブンが磔にされたときには、次週までそのことで頭がいっぱいだった。また、仮面ライダーシリーズも同じように夢中で見ていた。その頃はただただヒーローに憧れ、怪獣や怪人を憎んでいただけだった。
しかし、大人になってから改めてウルトラマンについて考えてみると、そんなに無邪気に考えることが出来ない。仮面ライダーはそもそも改造人間なので人類側ではあるが(そうはいっても、からだを張って世界平和に尽くすことは次元が違うが・・・)ウルトラマンは光の国から来た、人類とは縁もゆかりもない存在なのだ。そんな彼が、自分を犠牲にしてまで人類を救おうとしているのだ。そんな価値が我々に本当にあるのだろうか?
映画では、ウルトラマンが登場してから大きく3つの話が展開される。上映時間が2時間なので詰め込みすぎで、総集編のような印象を受けてしまうのが残念である。一つ一つの話を丁寧に掘り下げていけば、映画3本分くらいにはなってしまうだろう。しかし、興行的にはこれが正解と言えよう。よほどのマニアでない限り、ウルトラマン3部作を映画館で見ようとはしないからだ。
第一部ではザラブ星人が登場する。彼は禍特対本部に侵入し、停電とともに大規模な電子機器システム障害を発生させ、電子データを自由に操る高度な科学力を見せつけて、日本との友好条約(不平等条約)を迫る。しかし、条約締結を契機に国家同士を争わせて人類を殲滅させるという陰謀があった。
第二部ではメフィラス星人が登場する。生体を巨大化させる原理の仕組みであるベーターボックスを使い、浅見弘子(長澤まさみ)を巨大化させる。そして、ベータシステムを使って、「人類の巨大化による外星人からの自衛計画」を提案する。しかし、彼の本当の目的は、人類がベーターシステムによって巨大化し兵器に転用できる有効資源だと知り、地球を他の生命体に荒らされる前に独占管理することだった。そして、人類は知恵でも暴力でも、無条件に外星人に従うしかないことを分からせるために、禍威獣を登場させ、ウルトラマンを誘い出したのだった。
第三部ではゾフィーが登場する。人類が巨大化して兵器に転用できることを図らずも明らかにしてしまったウルトラマンを光の国へ召喚し、危険因子となってしまった人類を消滅させるために最終兵器ゼットンを使用する。
映画では、この話のそこかしこに人間の愚かさを描いている。禍特対が見事な官僚組織に組み込まれていて自由な活動ができない様子、ザラブ星人との条約締結に向けての国内の政治権力闘争、ベータシステムをいち早く手に入れることで世界におけるプレゼンスを高めることに必死な政治家。庵野さんの政治への不信感や嫌悪感が如実に表れているが、現実もそれほどかけ離れたものではないだろう。一方で、この映画では人間の良さがほとんど描かれていない。あえて言うならば、冒頭で斎藤工が少年を身を挺して救ったところだけだ。
ウルトラマンが地球に留まることを決意したときにゾフィーに、「人類はまだ幼い。その成長を見守っていきたい」と語っている。しかし、僕たちは成長しているのだろうか?相変わらず国土を拡大しようと戦争を仕掛けている国、まるで、ウルトラマンが来てくれると信じているかのように自国の自衛手段を考えない国。そんな国々のなかで、ただただ自分のことしか考えていない人々。
「ウルトラマン、僕たちはあなたが期待するように成長していますか?」
ドライブマイカー ネタばれ
僕は大学生の頃に「風の歌を聴け」を読んでから、村上春樹の作品
さて、だいぶ前置きが長くなってしまったが、映画「ドライブマイ
あらすじ
舞台俳優で演出家の家福悠介は、脚本家の妻・音と幸せに暮らして
個人的にとても残念だったのは、音と高槻の人物造形である。原作
この映画の一番のテーマは、短編「木野」での主人公の台詞「おれ
映画版で原作から改変して印象に残っているのは、「シェエラザー
そして、西島秀俊と三浦透子の演技がいい。西島はもともと台詞が
これからの二人に待ち構えている未来はどんなものなのだろうか。
ポリコレの正体 福田ますみ
著者の福田ますみさんの名前は知らなかったが、福岡の「殺人教師
さて、本書であるが、近年、ポリコレが行き過ぎているなあと常々
はじめに、森喜朗元総理大臣の「女性がいる会議は時間がかかる」
次にBLM問題について書かれている。ジョージ・フロイド氏が警
次に、LGBTの問題を取り扱っている。正直にいって、昨今のL
現在、LGBT運動は、その範疇に収まらないマイノリティにまで
一方で、性自認にかかわるトランスジェンダーの問題も一筋縄では
「男女平等」「人種差別反対」「LGBTへの配慮」それだけ聞け
新型コロナ「正しく恐れる」レジュメ
新型コロナ「正しく恐れる」問題の本質は何か 西村秀一
本当の専門家?が書いた本であり、説得力がある。
○リスクコミュニケーションの失敗
政府、マスコミ、自称“専門家”が国民に対して過度にならない、
原因
情報の隠蔽といわれることを恐れて、情報を吟味せず垂れ流してい
視聴率を上げるために、インパクトの強い情報のみを垂れ流してい
とりあえず、最悪のことを言っておけば、判断が間違ったときにも
⇒その結果、国民は過剰な反応、ヒステリックな反応をする。
小さな安心を優先して、大きな安全を犠牲にしてしまう。
例
変異株について騒ぎすぎ!
変異株を分類したところで意味はない。対策は同じ
毎日の感染者数に騒ぎすぎ!
一週間ごとの平均で全体の様子を見るべき、日の変動などを見ても
そもそも1,2週間前の感染状況なので意味はない。
○インフルエンザとの違い
現時点では新型コロナはインフルより怖い。
⇒子どもにはほとんど風邪と同じレベルであるが、血栓ができるの
インフルエンザワクチンより副反応が強いのはあたりまえ。
⇒未知のウイルスに対応するために、ワクチンの効果を強くしてい
○本来、専門家は、「~をしてはダメ」と同様に「~はし
本当の意味の専門家がいないことが原因。
こういった声が少しでも届けばいいのに。