人魚の眠る家 ネタばれ

 新型コロナウイルスのせいで、どこへも出かけられず、映画館への足が向かない日々である。見えないウイルスにおびえている今の状況は、中世ヨーロッパの黒死病に恐れている人や戦前の日本でハンセン病におびえている人々と大差はない。我々は結局大して進歩はしていないのだと改めて感じてしまう。

 人形の住む家 に対する画像結果

 さて、家で読書も飽きたので、アマゾンビデオで「人魚の眠る家」を見た。以前、映画の番宣をTVで大量に流していたので、印象に残っていたからだ。しかし、結論から言うと、東野圭吾の割にはひねりがなく、直球だなという感じがした。番宣のしかたもホラータッチだったが、内容的にはホラー要素はほとんどなく、人間の死について極めてまっとうに論じているので、番宣を見た人は映画館で肩透かしを食っただろう。

 脳死状態になった子供を最新の技術を使って、横隔膜を動かし呼吸させ、脊髄反射を利用して体を動かしている。この子は生きているといえるのだろうか?欧米では脳死がスタンダードであると聞くが、日本ではいまだに心臓死が一般的である。私自身も心臓が鼓動して、温かい状態で「死んでいる」というのは少し違和感がある。

 結局、主人公は脳死を受け入れるのだが、子供が夢枕に立ってさよならを告げたことが、きっかけとなっている。ここだけファンタジーなので、遺族が死を受け入れた時が死であるということなのだろうか?

 私としては東野圭吾さんなので、主人公が娘を殺そうとする場面で全く違う展開を期待してしまった。主人公は警察を呼んで、娘に包丁を向けて叫ぶ。

 「この子が死んでいるというなら私は罪に問われない。生きているなら殺人罪になる。裁判で判断してもらう!」

 ちょっとグロテスクだが、実際に裁判になり様々な人が、自らの人生を振り返りながら主人公への判決を考えていく。そんな展開のほうが、多くの人に死とは何かを考える機会を与えられたのではないだろうか。

 科学は人に生死にどこまで踏み込んでいいのだろうか。誰が個人の死を決定できるのだろうか。反対に生きているということはどういうことなのか。

 そんな多くの命題を多くの立場の人を巻き込んで法廷の場で考えてほしかった。

 私にも答えはないしおそらく正解というものはないだろう。しかし、様々な選択肢を考える必要がある気がする。