5億円のじんせい

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あなたの人生の価値はいくらだろうか?

「人が生まれてから死ぬまでにかかる日本人の平均金額、約二億百万円。死ぬまでに稼ぐ金額、約二億三百万円。つまり人は、自分が生きるために使う金額を一生かけて稼ぎ、そして死んでいく」というナレーションでこの映画は始まる。もし、その計算が本当だとすると、自分で稼いだ金のほとんどを自分で消費することになる。つまり、プラスマイナスゼロで、付加価値はない。では、私たちの人生に価値はないのだろうか?

主人公の少年、望来は心臓移植のために善意の5億円をもらい生き延びた。つまり、彼は最初から5億円の負債を抱えて人生を歩んでいるわけだ。「善意を無駄にしない生き方をしよう」「少しでも恩返しができるようにしよう」と彼は周りから望まれる姿に自分を偽ってずっと生きてきた。166回にもわたる「感謝の集い」では感謝を強要され、TVでは頑張っている自分を常に演じていなければならなかった。

もちろんこれは荒唐無稽な設定である。しかし、善意という“善なる意識”が時として無意識のうちに暴力となることを表すには絶妙な設定である。我々は善意という行為を行うときには、その行為が正しかったという証拠を無意識のうちに求めている。高齢者に席を譲った時には、「ありがとう」という言葉を求めているし、道で迷っている人に行先を教えた時には「助かりました」という言葉を求めている。だから、求めているものが得られなかった時には裏切られたと感じてしまう

だが、善意を受けた方から見れば、それは無言のプレッシャーになる。主人公は5億円という善意に押しつぶされそうになるのも理解できる。彼が“すくすく”と成長していることだけが、その善意の正しさの証明なのだから。そして、頑張りを強要する母親やまっすぐ育っている主人公を“温かい”目でみている地域の人々から彼が逃げたことも十分理解できる。

善意というのは本当に返さなければいけないのだろうか?映画はこの疑問に明確に答えている。主人公が家出をしている間に出会う人々は、彼のことを知らない人ばかりであるが、彼に対して実にやさしい。寝るところもなく困っていた主人公を泊めてあげたホームレスの男オレオレ詐欺の集団に殺されそうになったところを助けてくれた闇社会の男もそうだ。彼らの言葉を通して善意の本質が語られる。

ホームレスの男

「あんちゃんは、盗もうと思えば盗めたコンビニ前の傘を盗まなかった。そして、ホームレスの俺から、なけなしの金で傘を買おうとした。俺はあんちゃんが気に入ったのさ」

闇社会の男

「優しい人とそうじゃない人がいるんじゃなくて

優しくしたいと思わせる人とそうじゃない人がいるだけだ」

つまり、善意とはそこが出発点ではないのだ。相手に何かをしてあげたいと思わせる何かが既にあるのだ。つまり、善意はgive and take ではなく、take and giveなのだ。彼には善意を受けるだけの何かがあった。それだけで十分なのだ。これは善意を受ける側だけでなく、善意をする側にも痛烈なメッセージとなっている。

 主人公は家を離れて旅に出た。映画の中で、「旅行は目的地が決まっているもの、旅は行先がわからないもの」と、旅と旅行の違いが語られているように、彼のひと夏の旅には明確な到達点はない。人生の価値に対しての答えを得たわけでもない。人生の価値は誰にも決められないし、誰もわからない。だから、人生は行先がわからない長い旅なのだろう。「誕生日は母親に感謝する日」だ。人間は生きているだけで奇跡であり、素晴らしい。生きづらさを一瞬忘れて前向きになれる映画だ。