謝罪の王様

 些か旧聞に属するが、安倍首相のワンパターンについての違和感をまとめておく。河井善法務大臣夫妻の逮捕に際して発した言葉は、

 「大変遺憾であります。かつて法務大臣に任命した者として、その責任を痛感しております」と語り、「国民の皆様に深くお詫び申し上げます」

であり、この7年間嫌というほど聞いたフレーズである。「責任を痛感」「深くお詫び」といった言葉を連呼するスタイルに誠意は感じない。しかし、その決まり悪さはなぜなのか自分で説明できなかった。ところが、先日、謝罪について言及して

いる本を読んで、腑に落ちた。村上龍の「無趣味の勧め」の一節である。

 

 ワシントンの桜の木の話は有名だ。父親が大切にしていた桜の木を子どもだったワシントンが切ってしまった。怒る父親に対し、自分がやったとワシントンは正直に告白した。父親はその正直さにワシントンを怒らずに、逆に褒めたという。
 このエピソードで重要なのは、ワシントンは謝罪をしていないと言うことだ。ワシントンは自分がやったと告白しただけで、ごめんなさいと謝ったわけではない。相手を物理的に傷つけた場合には即座に謝ることが必要だが、ビジネス上のトラブルや、疑惑が生じたときには、ことの経緯と自分がどう感じたかを明らかにするのが先決だ。たんに謝ればいいわけではない。
 そもそも何が起こったのか、どういう経緯だったのか、どういう原因で怒ったのか、自分はどう関与したのか、責任は誰にあるのか、損害を把握しているのか、どのような対応をしたのか、事態は解決に向かっているのか、いつ解決するのか、再発防止のためにどのような対策をとるのか、損害賠償について具体的にどう考えているのか、そういったことをできるだけ速やかに明らかにすることが、謝罪よりも遙かに重要である。責任の所在も明らかにせず、型どおりの謝罪をしたり、土下座して謝っても仕方が無い。

 

 ワシントンの話は有名だったが、このような切り口で読んだことはなかった。そうなんだよね、彼は謝っていない。自分がやったと告白しているだけだ。だが、型通りの謝罪よりも自分の責任の所在をはっきりさせる方がよほど大切だ。自分がどれだけその不祥事に関り合いがあるのか、どういった被害があったのか、そういったことを述べる方が重要である。

 安倍首相に置き換えて考えてみると、「私が1億円余りの選挙費用を融通した」、「1億円については直接支持していないが、支払うことに反対しなかった。」など自分がどれほどこの件にコミットしているかはっきりさせることが必要だ。任命責任などというアバウトな話で頭を下げられても仕方がない。

 最近、誰に対して、何について謝罪しているのか分からないようことが多い。とりあえず、謝罪という謝った文化が広まらないように、注意しまければいけない