歴史を学ぶとは

 

 人は常識を疑わない。当たり前と思うことは、よほどの偏屈以外はそのまま受け入れるし、その常識を元にして様々なことを判断する。しかし、われわれの常識とは、現代というほんの短い期間に通用することに気をつけなければならない。

 ギリシアのスパルタを例にとろう。そこにはわれわれの常識からはかなり逸脱した世界が広がっている。まず、スパルタでは7歳になると全寮制の兵士養成学校へ入る。学問は重要視されず、ひたすら肉体を鍛え、優秀な兵士となることが「常識」であった。また、食べ物は栄養補給に過ぎず、食を楽しむという考えはなく、肉をまるごと煮込んだものが食の「常識」であった。さらに、バイセクシュアルが「常識」であり、男は30歳になるまで家庭を持つことは許されなかった。

 このスパルタの「常識」は現代では通用しない。しかし、だからといって彼らを非難することはできないし、彼らはそれが当たり前だと思っていたはずだ。常識は絶対的なモノではなく、相対的なモノである。長い時間軸で捉えるときには、そのような考え方を持っていないと、歴史を間違って捉えてしまうだろう。現代の常識で過去を判断してはいけないのだ。

 例えば、戦時中の女性の人権について、戦前の労働環境についてなどについて、非難されることがあるが、現代の人権意識や、労働基準を持ち出して非難しても意味はない。2500年前のギリシアであろうが、80年前の東アジアであろうが、現代の常識というメガネで見てはいけないのだ。

 歴史を学ぶということは、長い時間軸で物事を考えられるようになり、物事を考える視点が多面的になるということでもある。現代の視点から世の中をみて、あの人は常識外れだと安易に判断しない。物事の判断の尺度は相対的であるということを考えられるだけで、かなり生き方が変わってくるだろう。