アフターコロナ

 東日本大震災のときに、我々の世界はもう前には戻れないと感じた。3.11後の世界は人々の考え方も生き方も前とは大きく変わったからだ。そして、こんなパラダイムシフトは、そうそう起こりはしないと考えていた。

 しかし、世界は再び変わろうとしている、新型コロナ感染症によって。今までの常識が通用しなくなり、考え方も生き方も変わってしまうだろう。では、どのように変わるのだろうか。マクロ的な視点で見ると、政治体制の強権化がますます進みそうだ。豊かで自由な生活を保障するために、人権を尊重することが絶対的であった民主主義国家では、このような感染症を防ぐことはかなり難しい。さまざまな考え方を持った個人を一つの行動規範で規制することは不可能だからだ。一方で、自由はないが豊かで安全な生活を保証することを目指してきた中国(もっとも、豊かさを保証することが体制の維持につながると考えているからだが)では、強制的な外出規制を行い、一定の成果を得てしまった。自粛という曖昧な方策をとった国とその成果が大きく異なり、強権的な手法の優位性が立証されてしまったのかもしれない。

 また、個人の行動監視を可能にする5Gの実現が大きく前進するはずだ。今やスマホのGPS、電子マネーの履歴、検索履歴、防犯カメラ、顔認証などの科学技術を利用すれば、個人の行動は一目瞭然である。それを一元化して管理することで、国民全体の行動を監視することが可能となるだろう。そのうちに、「サイコパス」のように一人一人に犯罪係数などをつけて、未然に事件を防ぐようなシステムも作ることができるだろう。

 日本に視点を移すと、戦後、豊かで自由で安全な生活を謳歌できていたのだが、それは政治家の有能さというよりも地政学的な優位性によるところが大きいと思う。ところが、中国の台頭やグローバリズムの反作用で生まれたナショナリズム、そして、トドメとして、今回の新型コロナ感染症によって、政治家の危機管理能力の無さが露呈してしまった。政権の中枢にはアホしかいないのかとも思えるドタバタ劇、それを殊更大げさに扱うマスコミ、責任のないところで言いたい放題の知識人、そして、それに便乗するかのように聞きかじった知識で偉そうにブログで発信している私のような存在。何でもいえる表現の自由って本当に素晴らしい。でも、本当に収拾がつかない。

 外出もせずに、テレビでコロナの報道ばかり見ているとろくなことを考えない。こういったときだからこそ、じっくりと映画鑑賞でもしようかな。