科学と非科学   中屋敷均

 

 科学と非科学の境界というのは非常に曖昧である。われわれが論理的に説明できる分野を科学的というならば、よく分からない部分はすべて非科学である。科学の外には未知の世界が広がっているのだ。そして、科学の進歩とはその未知の世界を少しずつ開拓し、新たなる科学的真実が付け加えられてきた歴史なのだ。動物行動学者の日高敏隆先生は「科学的真理とは、そのときつける最善の嘘である」といったそうだが、言い得て妙である。

細菌やウイルスなどの存在が分からなかった中世までは、病気とは謎の現象であり、あやしげな療法がまかり通っていた。そして、レーウェンフックが細菌の存在について語ったときには、彼は魔法使いの扱いだったという。彼の発見は、彼の死後100年もたってから微生物学として、科学の仲間入りをしたのだ。また、宇宙科学も太陽系からビッグバンに至り、宇宙の仕組みについて解明されたかに見えたときに、ダークマターダークエネルギーの存在が明らかになり、われわれの知っている宇宙は全体のほんのわずかであったことが分かった。しかし、ダークエネルギーダークエネルギーに関しては、ほとんど分かっておらず、非科学的と言われても仕方が無い状況である。

一つの闇を明らかにすると、さらに大きな闇がその先にある。現代の科学の大系の中にあるモノだけに限定してしまうと、そこに進歩はない。UFOや超能力や地底人だって、将来的に科学になる可能性もあるわけだ。そして、人間は本能的にその闇の存在を知っているので、その闇を恐れて探求する。しかし、AIは自分が知っていることがすべてである。だから、恐れることがないだけでなく、その闇を開拓しようとすることもない。

 

 グローバル化が叫ばれて久しく、“開かれていること”が無批判に歓迎されているが、もっと“閉じられたこと”の大切さが意識されてもいい。閉じられたことは、簡単には見えないし、ある種の純度を保っている。赤い絵の具を水に落とせば、その色は無くなる。どんなモノでも、その偏りや純度を保つためには閉じられた時空間が必要だ。日本はガラパゴスだと、ことあるごとにいわれているが、それが本当に悪いことなのかはよく考えてみた方がいい。日本は島国として、閉じられた世界だったが故に、独特の文化が育まれたのだ。その文化が江戸末期からジャポニズムとしてヨーロッパに驚きとともに伝わった。もし、昔から外国との交流が盛んであったら、そのような文化は起こりえなかっただろう。

 最近では、「ガラケー」などと揶揄されている携帯電話も日本で独特の進化をたどった。ガラケー固執するあまりに、世界の潮流から取り残されたといわれるが、本当にそうだろうか?問題なのは、ガラケーとして進化してきた技術を、外に発信する力が無かったことだ。おサイフケータイiモード、シャープのザウルスなどはどれも世界的なイノベーションになりうる技術だったと思う。うまくすれば、アップルのような存在になり得たかもしれない。しかし、国内市場ばかりを見ていたせいで、海外へ打って出ることはなく、取り残されたのだ。

 グローバルスタンダードという同じ土俵で競争していけば、同じ価値基準での優位性が問われる。現状ではそれは価格なので、人件費が恐ろしく安い中国の独壇場となってしまう。少しばかりの技術の優位性などは、価格競争の前では無力だからだ。

 大学のグローバル化も同じである。イギリスのどこかの機関が作る大学ランキングで上位になることに血眼になっているのは、悲しい限りだ。加えて、英語での授業の充実や留学生の数を増やす、アドミッションポリシー、ディプロマポリシーなどの再定義などみんなが意味ないと思っていても文科省から、運営費交付金を減らされないように取り組んでいる。誰かの思いつきレベルの指示を唯々諾々と従っているのだ。そこには世界的な優位性を得られるものなどない。

 閉じた空間にこそ独自の発展がある。新しい物語を作る力があるのだ。それは、閉じた空間にしかカビは生えないことと同じだ。開かれた空間では決して生えることがないカビの存在価値をもっと大切にした方がいい。