長寿祝い

 先日、父親の長寿の祝いをした。孫を含めて8人でお祝いをしたが、いつまでも元気でいてもらいたいものだ。しかし、杖を使いながらころばないようにゆっくり歩いている姿を見ると、寄る年波には勝てないなとつくづく思う。

 退職後は、ボーリングをしたり、俳句を作ったり、詩吟をしたりと退職ライフを満喫しているようだ。しかし、祝いの席でポロッと口に出したのだが、ここ数年はボーリングのスコアは落ちる一方で、詩吟でも張りのある声がなかなか出せなくなり、それがとても悔しいといっていた。

 「年の割にそこまで出来るなんてたいしたものじゃない?」とみんな口を揃えていったのだが、その言葉は何の慰めにもならないようだ。以前出来ていたものが出来なくなってきている。それは本人が一番はっきりと自覚しているはずだ。周りとの比較ではなくて、過去の自分と比較するなかで、その衰えを突きつけられることはとても辛いことなんだと改めて感じた。

 私はいろいろな面で父親によく似ている。偏屈なところも、人付き合いが苦手なところも、自己表現が下手なところも、年をとってくるほど、あのころの父親と同じだと自覚する。そして、自分の衰えに対する口惜しさというところでもこんなにも同じ気持ちを共有しているのかと驚いてしまった。

 私は何十年もの間同じ仕事をしている。仕事内容もメインの仕事はまったく変わらない。しかし、年とともに以前出来たことが出来なくなってきているのがよく分かる。今の仕事に対するスキルのピークは3,4年前だったと痛感する。それは残念なことに、経験値では絶対に補えないものだ。アスリートなら「体力の限界」といって、引退するだろうが、一般人である私はそうはいかない。自らが下り坂であることを認識しながらも歩き続けなければならない。

 村上春樹が以前エッセイで、マラソンについて、年をとってしまい、これ以上タイムは伸びることがないがそれは問題ないということを言っていた。彼のように人生を達観できれば楽なんだろうが、私は過去の自分のイメージにとらわれずにはいられない。そんな気持ちを父親と共有していたんだと感じた一日だった。