福島第1原子力発電所事故を巡る強制起訴事件

 福島第1原子力発電所事故を巡る強制起訴事件で東京電力の旧経営陣3被告を無罪とした。業務上過失致死罪で求刑されていたが、誤解を恐れずに言えば、妥当な判決だと思う。まあ、著名人がこんなことを書いていたら炎上してしまうが、細々とブログを続けている一個人では許されるかなという甘えもあり、書いていく。

 まず、大前提として福島の原子力発電所の事故で被災した方々はまだまだ大変な生活を送っており、一生癒えない苦しみを抱いていると思います。それは私などが察するにあまりあることだと思います。しかし、被害が甚大であることと過失の大きさは直接関係が無い。「こんなに大勢の人が苦しんでいるんだから、責任とれ」というのはあまりにも感情論に走りすぎている。例えは悪いが、「苦しんでいる人がいるんだから、日本は永遠に謝れ!誠意を示せ!」などという気持ちがそのまま判決になってしまうような隣国と変わりが無くなってしまう。

 主たる争点は被告らに津波襲来の予見可能性があったと認められるか否かだ。結果の重大性を強調するあまり、あらゆる危険性を考慮して必要な措置をおこなうとなると発電所の運転が不可能になってしまう。そうなったらそうなったで、「なぜ操業しないんだ!」「金返せ!」などと言われてしまうだろう。

 人は何も起こらないときには、社会の動きに鈍感であり、動いて当たり前という感覚でいる。しかし、ひとたび何かが起こると、当たり前としか思っていなかったことに対して批難し始める。過度なリスクマネジメントには文句を言い。災害が起こったらリスクマネジメントの低さに文句を言う。おかしな例えかも知れないが、甚大な事故の可能性が否定できないと言うことで、飛行機の運航をやめたら困るだろう。したがって、危険の予見可能性やリスクマネジメントを争点にしたら、勝ち目は無いような気がする。

 東電幹部の罪は災害が起こってからのクライシスマネジメントの不備である。当時の吉田所長のいわゆる吉田調書などをみるとその迷走ぶりは、当時の民主党の対応と相まってひどいものである。例え、災害に対する予見可能性が低かったとしても、起きてしまった災害に対しての対応には責任はある。被害を最小限にするにはどうすべきか、現場と綿密に連絡を取り合いながら、率先して意思決定をすべきだった。そういった経営者としての資質は無かったといえる。

 今回の起訴内容では無罪になったが、それをもって彼らが被災者に対して責任が無いと言うことではない。そのことだけはしっかりと言っておきたい。