脳は無理矢理こじつける

 ヘんてこに見える形質を持った生き物について、どうしてそんなヘんてこな形質なのかと問われると、生きていくためには機能的にそういった形質が必要だからだろうと考えて答えを探しがちです、もちろん、「こんな形質を持っているから生きている」生物も数多くいるのだろうけれども、かならずしもそれがすべてではなくて、「こんなヘんてこな形質を持っていても生きている」というのが多くの生物の実相なのではないかと思います。

 人も何の役にも立たない形質を持っています。どうでもいいところに無駄な毛が生えていても生きているし、白髮でも、禿げ頭でも、生きているのです。良い形質、役に立っ形質はもちろんたくさんありますが、全部が全部そういうものではありません。この形質はきっと何かのためにあるのだろうと考える人が多いけれども、何の役にも立たないような形質もまたいっぱいあるのであって、それでも、死ななければ生きているのです。

 人間は体毛がほとんどなくなってしまいましたが、裸の(体毛がほとんど無い)形質というのは非適応的です。しかしそれでもヒトは生きているのです。裸になったのは何かに適応的だからと考え、自然選択によってその理由を無理やり説明しようとするネオダーウィニストは、そこでつまづます。でも、裸が適応的である理由を無理に探すことはないのです。人間は、裸というとても不利な形質を持っているにもかかわらず、死ななかったから生きている。ただそれだけのことです。

 もう一つの考え方は、一つの遺伝子が多面発現をするために、有利な形質とリンクしている不利な形質が発現したとも考えられます。

                     池田清彦「もうすぐいなくなります」

 

 脳というのは不思議な性質があるようで、不規則な事象を見ると不安になるらしい。そこで、全く関係のないものに因果関係をつけたり、理由付けをしてしまうようだ。そんなことを小耳に挟んだ時にタイミング良く上記の文章に出会った。へんてこな形質も自然選択によってその理由を無理やり説明しようとして、ネオダーウィニストはつまづいてしまう。意味のないことが我慢できないのが人間と言うことだ。

 我々も同じような行為をよくしている。街で偶然初恋に人に会ったりしたら、なにか運命的なものを感じたり、無理難題を押しつけられても、「これは試練だ」とか「実はチャンスなんだ」とか勝手に理由付けしたり、思わぬ実験結果に出くわしたときに、こじつけに近い理論を生み出す人もいる。

 だが、こういった行為はそのほとんどが時間の浪費になっている一方で、思わぬ副産物を生むこともある。偶然出会った初恋の人と幸せになることもあるし、無理難題を突破して大きく飛躍することもある。自然科学などはギリシャ時代から、こじつけた理論を繰り返しバージョンアップして発展してきているといっても良い。したがって、脳のこういった癖を完全に否定してしまうことは良くない。難しいことだが、要はバランスの問題だ。人生のすべてをかけてしまうことはギャンブルに等しいが、すぐに見切りをつけてしまうことはもったいない。その案配が難しいが大切だ。