線は、僕を描く

 メフィスト賞受賞作らしいが、その賞がどんなものか僕は知らない。しかし、文句なしに素晴らしい作品だ。読み切ったあとそう思わすにはいられなかった。

 物語は、両親を突然失って、自らの殻に閉じこもってしまった青年が水墨画を通して、少しずつ自分を取り戻していく姿を描いている。読み始めればすぐに結末が想像つくが、その変化の様子を周りの登場人物の成長を描きながら丁寧に書いている。結末を楽しむのではなく、経過を楽しむ小説である。

 美術で一番大切なのは「目」であることがよく分かった。主人公にはその目が物語のはじめから備わっていた。恐らくそれは、両親を失って空っぽになった自分が無の心で対象物を見つめることから始まったのだと思う。作中で師匠である湖山先生がこう言っている。

 「君は善く見ていた。そして、見る易場所も間違っていなかった。そのことが水墨を描く人間にはとても大切なことなんだよ。君は善い目と心を持っている。それが何物にも代えがたい財産だ。」

 「たぐいまれな観察眼と情熱を持つ君は、たった一枚の絵から他の人が学び取ることよりも、遙かに多くを感じ、大切なことにあっという間に気づいていく。だからこそ、私は君に気づいて欲しいと思うことがある。」

 そして、その目を通して、対象物と作品に正対することが画家として必要なのだ。

 しかし、師匠の教えは禅問答のように抽象的でわかりにくい。昨今のわかりやすさを求める風潮からすれば、こんなわかりにくいことを言わずにズバッと真実を教えてくれてもいいような気がする。だが、これに関しても作中で言及している。

 たった一筆でさえ美しくあるようにと教えられた。私はその美を、技に求めました。ですが、湖山先生が思っていることはもう少し違うみたいです。いつか青山君がこの言葉を咀嚼して、自分なりの答えをを見つけたときに、私に教えて下さい。

 大切なのは咀嚼であり、自分なりの答えなのだ。言葉から何を感じ取るかはその人の生き方によって変わってくるものだ。そうやって自分で咀嚼して得たものしか身につきはしないのだ。たとえそれが師匠の本意とは違っていようとも、それはそれでいいのだ。人から与えられた真理など借り物に過ぎない。金子みすゞではないが「みんな違ってみんないい」のだ。

 だが、自分だけで解決しようとするとそれは独りよがりになってしまう。我々の個々の力は微力であり、刺激し合うことでその力は何倍にもなる。

 自分の絵だけを見ていれば、その内自分自身の手にも技にも騙されるようになってしまうよ。人に教えることで気づくことも多い。それに齊藤君や西浜君じゃ教えられないことが、青山君から見つかるかも知れないよ。

 結局、作品は対象物だけではなく、作者の心象風景を描いている。自分との対話である。

 水墨とは森羅万象を描く絵画だ。森羅万象というのは宇宙のことだ。今あるこの世界のありのままの現実だ。だが、現実とは外側にしか無いものなのか?心の内側に宇宙はないのか?自分の心の内側を見なさい。

 何気ない草や木が水墨ではこんなにも美しい。実はいつも何気なく見ているものはとても美しい物で、僕らの意識がただ単にそれを捉えられないだけじゃないのか。

 ここまで来て、ようやくタイトルの意味がわかる。僕が線を描いているのではない。僕の描いた線は線は、僕自身の心の内を描いているのだ。