私は、ダニエルブレイク

 「ゆりかごから墓場まで」といわれたイギリスの福祉制度だったが、それはもはや過去の幻影に過ぎない。サッチャーが唱えた新自由主義のもとで福祉は切り崩され、貧富の差は拡大していった。ロンドンでは家賃が恐ろしく上昇し、物価も驚くほど高い。私が10年以上前に行ったときでさえ、日本との物価の違いが際立っていた。
 格差の拡大はイギリスだけではなく、先進国共通の問題であり、日の当たらない底辺の人々の生活はどこも厳しく、そして悲しい。最近のカンヌはこのような人々を扱った映画が高く評価されている。日本の「万引き家族」、韓国の「パラサイト」、そして、アメリの「ジョーカー」。その系譜にイギリスの「私、ダニエルブレイク」があると思う。しかし、本作は他の作品と大きく異なる部分がある。それは、国の福祉制度への怒りであり、最後まで善良な一市民である主人公を描いているところだ。
 主人公、ダニエルブレイクは心臓病のために医師から働くことを禁止されているが、給付金受給審査ではじかれてしまう。そして、働くことができないにもかかわらず、給付金を得るために求職活動をするように言われる。また、オンライン申請のみで、電話をかければつながらず、給付申請が一向に進まない。これは、コロナ禍における持続化給付金騒動に似たものがある。しかし、役所が官僚的で融通が利かないと非難するのは的外れだ。「かわいそうだから」という理由で手続きを簡略化していれば、制度自体が崩壊してしまうだろう。役所の人々は自らの仕事を「適切に」行うことに努力している。非難すべきは彼らではなく、煩雑で矛盾に満ちた制度を設計した政治家だろう。映画ではそういったマクロ的な問題に正面から怒りをぶつけるのではなく、ミクロ的な問題を丁寧に描くことで、画面に映っていない政府を痛烈に批判しているのだ。
 また、貧しい人々の助け合いやいたわりも描いている。ダニエルをいつも気遣っている元同僚。ゴミ捨てについていつも厳しく注意されているが、温かい声をかけてくれる隣人。ロンドンを追い出されて、無一文でやってきた子持ちのシングルマザーのために子守や家の修繕をかってでているダニエル。そのシングルマザーがあまりの空腹のためにパスタソースの缶を開けてたべてしまった様子を見て優しくいたわるフードバンクの人々。お金がなく生理用品を万引きしてしまったときに、見逃してやった店主。誰一人として金持ちはいないが、自分のできる精一杯の手を差し伸べている。しかし、その支え合いはあまりに脆弱であり、根本的な解決にならないことが痛々しい。
 ダニエルの葬儀で、シングルマザーが彼の声を代弁する。
   My name is Daniel Blake. I’m a man, not a dog.
     As such, I demand my rights. I demand you treat me with respect.
     I, Daniel Blake, am a citizen nothing more and nothing less.

 国家とは税金を払い、善良なる市民を支える義務がある。しかし、イギリスはもはや善良な市民すら支える力を失ってしまったのだろう。それは未来の、いや、すでに今日の日本の姿かもしれない。