アーモンド

 私は翻訳本をほとんど読まない。それは翻訳独特の日本語がどうしても気になって、頭に入ってこないからだ。最近はいくらかましになってきたが、昭和時代のいわゆる名訳と呼ばれる作品群(サリンジャー、ギャッツビー、トルストイ等)はあまりにも高尚すぎてお手上げだった。しかし、このハングル語の翻訳である本書は、訳が非常に自然で、すんなりと頭に入ってきた。

 この物語は扁桃体が人より小さいために感情をもたない少年の話だ。扁桃体は人間の感情を司る脳の部位であり、短期記憶を司る海馬の隣にある。この扁桃体のことをアーモンドと呼ぶことからこのタイトルになったようだ。さて、主人公の少年は身内が惨殺される現場に居合わせる。しかし、恐怖も怒りも感じない彼はただただその場に立ち尽くしていた。周りの人間からすると不気味なモンスターに思えただろう。

 その彼が、二人の友人との関わり合いの中で少しずつ成長していく。一人は問題児である誰も怖くて近づかなかったが、彼には恐れ知らずなので不思議な友情が芽生える。そして、網一人は女の子だが、彼女と付き合うなかで少しずつ愛情が芽生えてくる。このような物語が一人称で書かれているので、彼の目線で物事をみることができる。そのために彼の思考パターンがよく分かり、感情のない人はこういったことを考えて行動しているのかと新鮮な驚きを感じた。

 しかし、著者の考えている主題はそういった少年の成長譚ではない気がする。彼は恐怖を感じないが故に、凶悪な男のもとへ、友人を救い出しに向かった。一方の感情を持つ我々はどうだろうか。物語の中で少年が我々に向かって言う台詞が厳しい。

 「母さんとばあちゃんが襲われているのを見ていながら、何の行動もしなかったあの日の人々はどうなのだろうか?彼らは目の前で、あの出来事を目撃した。遠くにある不幸という言い訳の出来ない距離だった。~遠ければ遠いでできる事はないといって背を向け、近ければ近いで恐怖と不安があまりにも大きいといって誰も立ち上がらない。ほとんどの人が感じても行動せず、共感しても簡単に忘れた」

 僕らは感じたり共感したりすることで満足してはいないだろうか?今、世界中で苦しんでいる人々がたくさんいる。そして、そういった報道がある度に、悲しみ、同情する。しかし、ほとんどの人はそれで終わってしまう。大切なのは感じることではなく、行動することなのだ。感情を持たない少年という主人公を通して、著者の強烈なメッセージを感じた。